2005/11/21

『闘魂 拳ひとすじの人生』 大山倍達



「一撃」を背に、カウンターで名だたる強豪をまさに一発のパンチでマットに沈めるフランシスコ・フィリオの姿はまだ記憶に残り、近年のクラウベ・フェイトーザの成長には目を見張るものがある。彼らを育てた「極真カラテ」、その創始者こそが大山倍達その人である。

大山倍達の名は知っていたが、彼自身の話はあまりにも伝説的すぎて、真偽のほどはあやしいと思っていた。本書ではその内容が、本人の口から詳しく語られている。目次を開いてみると、すでに興味を引かずにはいないタイトルが並ぶ。「全裸パーティーの美女たち」、「アメリカ牛に必殺の二段打ち」、「大至急"空手マン"を送れ」。推薦文を梶原一騎が書いているが、大山倍達は『空手バカ一代』というマンガにもなったほどなので、タイトルの奇抜さもそんなとこから来ているのかもしれない、とも思う。

しかし、読み始めてみると空手バカというには、文章はしっかりしているし、好感も持てる。体重130キロ、身長201センチの全米一のレスラーを体重78キロ、身長175センチの大山が脇腹への中段突き2発で倒す、と書いてしまうと真実味がない。だが、そこで彼は「顔がひきつっているのではないか」と思うほど恐怖を感じたと正直に語り、倒した後の感想を次のように話している。

人が人を傷つけるのは、力の違いというよりは、相手に対する恐怖心からである場合が多い。"窮鼠猫を齧む"というとおり、…恐怖心のとりこになって、一瞬、相手の受けるダメージのことを忘れてパンチを叩き込んだことが、いまもなお恐ろしくさえ思うのである。
(p.36)

この試合の後、デンプシーロールでも有名なボクシング元世界ヘビー級チャンピオンのジャック・デンプシーが息子を弟子にしてくれと訪ねてくるのだ。しかも、007のショーン・コネリーも門下生だ。偉大さの避けられぬ由縁か、どこか武勇伝じみてしまうのは確かだが、読めば納得させられるところが大きい。

また、アメリカのある街でその街の英雄を倒したばかりに、街の人々がみんなで命を狙ってきた話や、白人との戦いに勝った後の有色人種の人々の感激など、日本人が自分を白人の立場と混同してしまいがちな今日には、目の覚める思いのする黄色人種の立場からの体験談である。序文で、「私が、ほんとうの意味で戦いたかったのは、全米一の強豪レスラーでもなく、四〇〇キロの猛牛でもない」、アメリカで感じた「現代文明が生み出した悪を、この手でたたきのめしたかったのだ。」と強く言っているのが印象に残るが、その理由もよくわかる。

背表紙の上に少しやぶれがあるが、状態は悪くない。たまに挿入される写真も目を疑うものが多い。メンバーの風当たりが強い中、ひそかに格闘技の棚も用意しようと企む意気込みをこめて1200円くらいにしよう。

2005/11/09

『可否道』獅子文六



だいたいの本には著者というものがある。だから、古本を漁っていれば、自ずとたくさんの名前を見ることになる。これはいい名前だな、と思う著者の書いた本にはつい惹かれてしまう。どんな名前がいいかといえば、これは人によるかもしれない。獅子文六なんかは、私の場合、まず名前のインパクトにやられてしまう類の作家だ。

『可否道』は、後に文庫化されて『コーヒーと恋愛』と改題された。たしかに内容を一言で表現しなさい、と言われれば、「コーヒーと恋愛」となる。だが、やはりタイトルは「可否道」でなければダメだろう。「コーヒーの感じは、ふつう、珈琲と書くが、そのほかに、…無数の宛て字がある」。その中で可否会会長は「可否が、一番サッパリしているよ。それに、コーヒーなんてものは、可否のどちらかだからな。」とハッキリおっしゃっている。また「可否道」といったタイトルには、著者自身の名前にも通ずるセンスの良さも表れていてさすがと思わせるし、「珈琲」でなく、「可否」であることが、本書の品格を一段上げている。

コーヒーを入れさせれば右に出る者はいないだろうというほどの腕を持つ、女優坂井モエ子。彼女は8つ年下の演劇一筋の男性を旦那にもつが、年の差と彼女の収入が家計を支えている事実などから、2人の間にはズレが生じてくる。女優とはいうものの、モエ子は庶民派のわき役を得意とするようなタイプで、歳は40を越えている。だから、ここで描かれるのは、月9でやるような20代男女の色恋ではなくて、大人の恋愛だ。かといって、ドロドロの昼ドラみたいでももちろんない。にぎわう東京の白黒写真を眺めるような、どこかほのぼのとした空気が常に漂う。言葉にすれば、「昭和の雰囲気」とでも言うのだろうか。

獅子文六の本にハッとさせられるのは、その終盤、特に結末である。恋愛もののステレオタイプに、馬が合わない二人→ハラハラさせる出来事の積み重ね→結局、二人は結ばれる、という流れがあるなら、この流れの中に獅子文六は、男と女以外のそれらと同等になる要素を加えて、意外な結末を用意する。無論ここで作品で加えられる要素とは、可否(コーヒー)である。

意外な結末というのは、誰か一人、たいていは主人公が幸せになるのではなく、小説の中を全体的に幸せにするという点だ。そこでは、主人公も登場人物の一人として平等にとらえられている印象がある。今日でさえ、凡百の小説が中心人物に注意を引かれ、周りの登場人物を見捨ててしまう中で、獅子文六はバランスのいいブレンドを作り出すように関係全体を調和のとれた状態にもって行く。こういうやり方が興味深い。ここには、一家団欒を良しとするような日本人らしさが影響しているようにも感じられる。一見ありがちのようで、どこか辛みも持ちあわせた結末は、新たなスタートのような印象があり、それは『胡椒息子』でも同じだった。

途中、退屈することもなくはないが、また他の作品を読もうと思わせる魅力は十分ある。なるほど、と思わせる可否(コーヒー)の蘊蓄がちりばめられているのも、本書の魅力の一つだ。装幀は、芹沢けい介が担当している。箱もなくシミが少しあるのは残念だが、表紙と扉のデザインで芹沢さんのセンスの良さが確認できる。本書は、読みたい人も多いらしい。読むには問題ない状態だから、1300円くらいだろう。

2005/11/04

『映画芸術 1970年3月 NO.271』



『キネマ旬報』は戦後復刊してから今も続く映画雑誌だ。戦後復刊してから、1960年代までのものは、表紙に海外の女優さんの写真が配されて、よき時代の映画の姿が感じられる。そんな姿にまいって、「映画俳優に見せられて」というキネマ旬報の特集ページも前に作った。そんな経緯もあって、ブックピックでは、キネマ旬報を多く扱っている。しかし最近、映画雑誌でもう一つ今もがんばってる『映画芸術』に出会って、店頭でペラペラやってみたら、こちらもかなり面白そうだ。

『映画芸術1970年3月号』でまず気になるのは、寺山修司、唐十郎という名前で、表紙をめくると、目次の裏に天井桟敷の広告なんかが載っている。キネ旬の70年代はしっかり読み込んでないが、60年代以前を見た感じだと全然違うし、アングラ色が強いのが当時の『映画芸術』の色なのかもしれない。あと、エロの匂いも漂う。前に一度だけ買ったときの号は、ポルノ映画ランキング特集だった気がする。そして、今号でも寺山、唐を抑えて、巻頭に「Cinema Eroticism」と題し、裸の男女のカットがある。どうでもいいが、このころの外人ポルノ男優は、みんなヒゲづらな気がする。ここでもヒゲだ。続く「続・いそぎんんちゃく」という映画広告のコピーも気をひく。

 ボインが
 五センチ、アップ!セクシームードは
 十倍アップ!…

 (p.24)

改行、句読点の位置が絶妙だ。だが、言われなければ、上映中に「五センチ、アップ!」に気づくかどうかははなはだ疑問であり、セクシームードに関しても主観の問題である。

「異色映画論」では、寺山、唐を筆頭に、増村保造、鈴木清順なども顔をそろえ、文章には勢いが感じられる。鈴木清順の文章は、本人の言葉で思考を実況中継しているようでさえあり、かなり長い文章に改行は一カ所しかない。芥川龍之介、太宰治と、文学の作家は自殺しているのに、小津安二郎、溝口健二、川島雄三はみんな病死だ。なぜ、映画監督は自殺しないのか、と考えながら鈴木清順はヴィスコンティを見る。自分自身と自分の魂を同時に登場させるというアクロバティックな書き方だが、結局どちらもヴィスコンティを否定する態度であり、「此の監督には自殺への思考の一かけらもなければ、…何故映画監督は自殺をしないのか、の問いを笑って蹴飛ばすタイプと見えた。」とある。事実、ヴィスコンティは、自殺することなく76年に病死している。増村保造の文章は対称的で、理路整然としてエリア・カザンの当時の新作「アレンジメント」を批判する。一方、寺山修司は、増村と同じく、「アレンジメント」を題材としながら、自分の体験に重ね、寺山節にしていて、増村とは全く違った趣がある。これは寺山節に引っ張られ、作品からは引き離されている印象もあるが、読み物として面白くなっているのは、さすがである。

他にも、種村季弘、飯島耕一の文章があったり、「革命的エロチシズムは神話か フリーセックス映画の流行」なんて特集も気になる。また、読みやすさなんて二の次でスペースを全く無駄にしないレイアウトには感銘を受けた。改ページだろうと思われるところでも決して余白を作らないスタイルからは、それを買う映画狂人たちの文字に対するどん欲ささえ感じられてくるからすごい。実際、1400円くらいでもいいんだが、その姿勢を買って1600円くらいはつけたい。

そういえば、書評欄で中井英夫が小栗虫太郎『黒死蝶殺人事件』を日本近代における「天下無双の奇書」なんて褒めている。小栗虫太郎は澁澤龍彦が触れていて気になっていたが、中井英夫もここまで言っているなら読まなければ、と思わされた。こんな拾いものがあるのは、古雑誌のいいところだろう。

2005/11/01

『天使のいざこざ』 ラングストン・ヒューズ 木島始訳



前回話した、古本を買ってポイントになってくるものの一つには、もちろん出版社がある。晶文社と平野甲賀によるサイのマークはセットとなってある種の安心感を持っている。それによって、どんな本でも晶文社だったら、きっといい本なんだろうと思わせてしまうのはすごい。

ラングストン・ヒューズは言わずと知れた黒人詩人。彼について語られた言葉の多くに、その姿勢に対するリスペクトの気持ちが感じられるし、いい評価を聞くことばかりだ、とは思っていたが、この本を読むと、それももっともだと思わされる。『天使のいざこざ』はアメリカの黒人差別を意識した短編で構成されていて、例えば、「うつろいて」はこんな話だ。

黒人失業者の大男サージャントは 雪の降る寒空の中、寝る場所もなく、教会を訪ねる。だが牧師は、ただ「だめだ!」といって、ドアを閉める。行き場をなくした彼は、もう一度ノックし、どうにか開けてもらおうとドアをグイグイと押しはじめる。これを見た白人警官は彼をひっぱがそうと棍棒をもってかけつけ、周りの白人たちもそれに加勢する。しかし、大男サージェントはどんなことがあっても引きはがされまい、とドアを掴んでいる。そのとき、教会はぶったおれる。「だめだ!」と彼にいった牧師も、警官も白人も埋め込み、教会全体がぶったおれた。すると、その衝撃で十字架から引き離された石造りのキリストが現われ、十字架から解放されて、そりゃあ、もう嬉しいと、ふたりで笑い声をあげる。サージャントはしばらくキリストとともに歩き、浮浪者のたまり場に寝場所を見つけ、キリストと別れる。
明朝、彼は浮浪者とともに走っている貨車に乗り込もうとする。その車には、なぜか警官がいっぱい乗り込んでいて、彼の指の付け根を殴る。「こんちくしょうめ」と、彼は叫ぶが、ふいに、汽車に乗ろうとしているのではなく、いま彼は刑務所にいて、独房の鉄柵にしがみついていることに気づくのだった。じつは教会のドアは何ともなく、傷んだのも彼の指だった。それでも、「キリストはどこへ行ったかなあ?」と彼はつぶやいていたというくだりで話は終わる。

教会を崩す彼の姿はすがすがしく、キリストとの会話にはユーモアがある。彼が見ていた幻想の世界は、正しいことが正しく反映される世界で、だからこそ教会らしくない教会は、あっけなく崩れる。それで完結していても話として面白い。だから、なにも不幸を突きつけなくったっていいじゃないか、これは小説なんだから、幻想の世界がまかり通ったまま終わった方が、後味だってずっといいや、とつい感じてしまった。しかし、ラングストン・ヒューズがこの文章を書くのは、「黒い同胞」たちのためであって、単なる娯楽のためではない。「黒い同胞」たちの生活は、幻想の世界で完結することは決してない。つらい現実であっても生きるしかないのである。だからこそ、ここでもしっかりと現実に引き戻す必要があり、そこにこそリアルさがにじみ出てくる。

ほかの短編にも一貫して感心するのは、辛い黒人の生活を描きながら、最後に彼らが生き続けることを示す点だ。ほんとうの辛さや悲しみは死ぬことにではなく生きることにある。死が悲しみを呼び起こすのだって、生きている人を介する。必ずしも死を批判するわけではないが、問題や出来事に対して、死をもって解決するのは、安易な終わらせ方ではないだろうか。どこからかそんな声が聞こえてきそうだ。たしかに、死から生まれるのは、他に対しての影響であって、その原因である問題や出来事に対しての姿勢はそこで潰えてしまうという事実はある。この本に出てくる主人公たちには、どんなに辛くとも生きようとする生のエネルギーが満ち溢れている。それが魅力的だ。

本書は全体のバランスがよく、物語によって書き方も多彩で飽きない。アメリカの黒人差別に対するヒューズの真摯な姿勢も十分伺える。個人的には、「そんなこたないす」、「どっちがどっち」という短編が気に入った。カバーの内側と、p.83にだけシミがあり、状態は良くはないが、とてもいい本なので、1500円にしよう。