2005/12/01

『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン 藤本和子 訳



表紙の写真がいい。はじめに、表紙について語られるが、それは裏に映るベンジャミン・フランクリンの銅像について。やっぱり手前の男性と女性の印象こそ強い。女性はきれいに服を着ているスレンダーな女性だが、出っ歯なのが見え、幸が薄そうでどこか滑稽だ。男性の方はいかにもアメリカが一番だというような立ちっぶりに頑固そうな表情をしている。服装も含めて、扱いづらさを感じる。友達になるのは至難の技だろう。映画俳優なら、キレてショットガンをぶっぱなす配役が似合う。「グライダー・クリーク プロローグ」で鼠に三八口径の連発ピストルを打ち込む男もきっとこんな感じだろう。と思っていたら、これがブローティガンなのだ。

最近、彼の遺稿の邦訳が出版されたり、クルーの松尾さんがその関連だろうと思われるトークショーに「行ってきまーす。」と言っていたり、ボンヌが日記的用語集をブローティガンで書いていたりして(近日公開予定)、その矢先に、古本屋でこの本を見つけた。新刊が出ているにしろ、表紙がいい上に、犀のマークも一押しをして、読んでみる気になった。

ブローティガンというと、「ビートニク」という言葉を思い浮かべてしまうけれど、反逆的な姿勢はあまり感じない。あとがきに、「ビートニクの時代には、どうしていましたか?」という質問に対して、「…ぼくはその運動には参加しなかった。連中のことは、人間として、好きになれなかった」とある。そもそも「ビートニク」という言葉の印象が曖昧だから困る。タイトルに「釣り」とあるのだから、呑気なレジャー気分は終始漂っている。ちなみに、「鱒」は辞書で調べると、分類上はサクラマスのことなのだが、東京では、カラフトマスをマスと俗称し、サクラマスはホンマスと呼ぶなど、名称は混乱しているらしい。ブローティガンの足の向かう先はクリークであるから、ここではおそらくヤマメのことを指しているのだろう、そして鱒釣りとは、渓流釣りなのだろう。

描かれる内容は、特定の場所にはりついているから固有名詞が多く、その上幻想的でもあるから、集中しないと字面だけを追うはめになりやすい文章である。しかし、独特の雰囲気はたっぷりあって、たまに食べたくなる味、もしくは、ふらっと温泉につかりに行くような気分でまた読みたくなりそうな感じがある。特に些細な対象への接し方なんかがいい。

掘立小屋からちょっとのぼったところに屋外便所があった。扉がもぎとられそうな感じで開いていた。便所の内部が人間の顔のように露わになっていた。便所はこういってるようだったー「おれを建ててくれたやつはここで九千七百四十五回糞をしたが、もう死んでしまった。おれとしては、いまはもうだれにも使ってほしくないよ。いいやつだったぜ。随分と気を使って、おれを建ててくれたんだ。おれはいまは亡きおケツの記念碑さ。この便所には匿さなくちゃならんような秘密などないよ。だからこそ扉があいてるんじゃないか。糞をしたけりゃ、鹿みたいに、そこいらの茂みでやってくれよな」
「くたばりやがれ」と、わたしは便所にいってやった。「おれは川下まで車に乗せてって貰いたいだけなんだぜ」

(p.20-21)

これは対象が便所であることも相まってまとまりすぎている感があるが、こういった主観的に立ち上がる距離感、ゆるやかな温度に魅力がある。

藤本和子さんのあとがきもブローティガン風の前半に続き、作品解釈の後半があって詳しい。「かれの作品をいくつか読むのなら、『アメリカの鱒釣り』から始めるのがいいと思う。また、もし、ブローティガンの作品はひとつだけしか読まないというのなら、『アメリカの鱒釣り』がいいと思う。」なんてことも書かれている。偶然だけど、始めに読んで正解だったようだ。「はじめに読むべきでは決してない。」なんて書かれてたら、気分が悪かったろうからよかった。そういえば、後書きに関することで、上下巻ある作品なのに、上巻のあとがきで結末を語るようなものは「本当にふざけやがって!」、という気になる。名作だからって、こんなことはしてほしくない。こんなあとがきを書く人に限って、たいてい文章も傲慢でよくないのだ。

1976年の7刷だが、状態は悪くない。新刊が1680円だから、700円くらいでどうだろう。

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