2006/05/11

『表現の風景』富岡多恵子

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詩人であり、小説家であり、美術評論家でもあった富岡多恵子。写真で見る姿も印象的で、一つの時代の象徴的な女性といった感がある。本書『表現の風景』は、雑誌『群像』に連載されていた文章をまとめたもので、その取り扱う題材は多岐にわたっている。元西ドイツの脳外科医で、人形制作者のS氏、過去の日記を素材とした小説『緑の年の日記』、共産党幹部のハウスキーパーだった女性たち、伊丹十三の映画『お葬式』、中原淳一編集の『ひまわり』など。どれもエッセイというには少し読みにくい印象もある一方で、作者が生身の感覚で気にかかったことを文章化しているということが強く伝わる文章になっている。読みにくいとはいっても、それは最近の文章の中で、というに過ぎず、最近のエッセイと呼ばれる文章は逆に読みやすさを重視しすぎではと思うことが多い。たとえば「エッセイ」でなく、「随筆」と言葉を換えれば、最近のものは軽すぎる気もしてくる。読みやすさのために削られてしまう何かが「エッセイ」と「随筆」の狭間にはある。

元西ドイツの脳外科医で、人形を作るようになったS氏の話は、「呪術と複製」というタイトルで次のように始まる。

「人形の嫁入り」という写真とインタビュー記事が、「写真時代」という雑誌に出ていた。写真の「人形」というのはダッチワイフであり、インタビュー記事は、「人形」制作者S氏の談話からまとめられていた。
(p.7)

題材自体も辛い話ながら興味深い内容だったので、どういう話か説明すると、S氏が脳外科の医者として働いていたとき、彼を訪ねてきた脳性マヒ患者の母親が、話をした直後9階から投身自殺をし、その現場を見てしまった。そんなことが続けざまに起こった。母親が話しに来たその告白の内容とは、患者である自分の息子に体を与えたということである。こういった病気にまつわる性の話というのは、人から聞いたことはあっても、もちろんその場ですぐになど明解な返答をできるはずはないし、自分の中ですらなかなか答えが出ず、話相手ばかりか自分をも誤魔化すしかないが、S氏はそれを目の当たりにし、立ち上がったのである。もしくは立ち上がるしかなかったのだろう。ただS氏の動機はどうあれ、その行動は幾多の誤解にもあったし、彼が望んだ通りの使われ方を必ずしもしなかったりしたが、その困難の中をくぐり抜け、S氏はある程度の納得が得られた「人形」たちを完成させた。S氏は「娘」たちと呼び、その人形たちは「必要と思われる方」を選別をした上で、限られた人に嫁がされていく、という話である。

この話をきっかけにして、富岡多恵子はコトバの方向に向かっていく。まず、「人形の出生」であるところのヒトガタの条件にこの「娘たちは不思議なほどぴったりあてはまる」と指摘し、この条件として、まず第一に形の点、そして第二にS氏の「人形」たちは、「娘」たちと呼ばれるように、S氏にとっては「霊魂の容器」として作られている点をあげている。しかし、ここでの「人形」たちはたとえば「娘」という言葉たちによっていくら演出されていても、精巧に作られた性器、つまり「実用」的な要素に根底を支えられていて、これがなければ呪術としての役割を果たさないと言う。確かにこの場合は、コトバだけでは「人形」を「必要」としている人を救うことはできない。それは、事実だ。しかしこれに対し、コトバそれだけでこの「人形」に対抗できるものがあるのだろうか、「モノ」を必要とせず、「コトバ」だけでS氏の「人形」に対抗できるほどの呪術となるもの、これこそ彼女が本当に求め、提起したい問題なのである。

はじめにいったように語られる題材は様々だが、そこで本当に語られていること、もしくは富岡多恵子が語りたいことは、「コトバ」について、ということに尽きる。たとえば、紹介した「人形」制作者S氏の話もそれ自体の出来事だけで、読者に何かを考えさせる話であるし、もし彼女でなければ、全く別の方向へ話をつなげて魅力的な結論を導いたかもしれないことが容易に想像できる。全体にわたって、富岡多恵子は語りたいことを語り、だからこそ悪くいえば、題材を自分のためにうまく利用しているとさえ言える。例えば「対話と独裁と」と題された「対談」についての文章は、富岡多恵子自身の対談に対する読者からの批判をきっかけに文章が始まり、その読者の批判が的をえていないことを指摘する方向に導かれていく。それはある種の弁解であるともとれる。

だからこそ、彼女の文章はあくの強さを感じたり、読みにくかったりもする。概して富岡多恵子はあくまで自分のために自分から発したことしか書いていない。しかし、ものを書くという行為に際して、これ以上に強い何かを語る動機はなく、自分のために書くからこそ表現の意味がある。ただの読みやすい情報であるならば、少なくとも筆者の名を書に記す必要はない。

冒頭で感覚的にエッセイと随筆の狭間にあると言ってしまった違いであり、最近の文章にはないと感じる富岡多恵子の文章の違和感は、おそらくこういった書き手の態度の問題である。この問題はおそろしく初歩的で単純なことでありながら、たとえば広告のように自分以外の何かのために書くという行為の中では、うっかり忘れ去られてしまいがちである。当たり前のことだからこそ、忘れがちで邪険に扱われやすく、この問題を気づかせてくれる文章は少ない。最近は特にその傾向がある気もする。富岡多恵子の本はがんばって探せば見つかるが、本書を含め絶版も多く、本書は状態は普通の古本程度なので、1000円くらいだろう。

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