2005/11/01

『天使のいざこざ』 ラングストン・ヒューズ 木島始訳



前回話した、古本を買ってポイントになってくるものの一つには、もちろん出版社がある。晶文社と平野甲賀によるサイのマークはセットとなってある種の安心感を持っている。それによって、どんな本でも晶文社だったら、きっといい本なんだろうと思わせてしまうのはすごい。

ラングストン・ヒューズは言わずと知れた黒人詩人。彼について語られた言葉の多くに、その姿勢に対するリスペクトの気持ちが感じられるし、いい評価を聞くことばかりだ、とは思っていたが、この本を読むと、それももっともだと思わされる。『天使のいざこざ』はアメリカの黒人差別を意識した短編で構成されていて、例えば、「うつろいて」はこんな話だ。

黒人失業者の大男サージャントは 雪の降る寒空の中、寝る場所もなく、教会を訪ねる。だが牧師は、ただ「だめだ!」といって、ドアを閉める。行き場をなくした彼は、もう一度ノックし、どうにか開けてもらおうとドアをグイグイと押しはじめる。これを見た白人警官は彼をひっぱがそうと棍棒をもってかけつけ、周りの白人たちもそれに加勢する。しかし、大男サージェントはどんなことがあっても引きはがされまい、とドアを掴んでいる。そのとき、教会はぶったおれる。「だめだ!」と彼にいった牧師も、警官も白人も埋め込み、教会全体がぶったおれた。すると、その衝撃で十字架から引き離された石造りのキリストが現われ、十字架から解放されて、そりゃあ、もう嬉しいと、ふたりで笑い声をあげる。サージャントはしばらくキリストとともに歩き、浮浪者のたまり場に寝場所を見つけ、キリストと別れる。
明朝、彼は浮浪者とともに走っている貨車に乗り込もうとする。その車には、なぜか警官がいっぱい乗り込んでいて、彼の指の付け根を殴る。「こんちくしょうめ」と、彼は叫ぶが、ふいに、汽車に乗ろうとしているのではなく、いま彼は刑務所にいて、独房の鉄柵にしがみついていることに気づくのだった。じつは教会のドアは何ともなく、傷んだのも彼の指だった。それでも、「キリストはどこへ行ったかなあ?」と彼はつぶやいていたというくだりで話は終わる。

教会を崩す彼の姿はすがすがしく、キリストとの会話にはユーモアがある。彼が見ていた幻想の世界は、正しいことが正しく反映される世界で、だからこそ教会らしくない教会は、あっけなく崩れる。それで完結していても話として面白い。だから、なにも不幸を突きつけなくったっていいじゃないか、これは小説なんだから、幻想の世界がまかり通ったまま終わった方が、後味だってずっといいや、とつい感じてしまった。しかし、ラングストン・ヒューズがこの文章を書くのは、「黒い同胞」たちのためであって、単なる娯楽のためではない。「黒い同胞」たちの生活は、幻想の世界で完結することは決してない。つらい現実であっても生きるしかないのである。だからこそ、ここでもしっかりと現実に引き戻す必要があり、そこにこそリアルさがにじみ出てくる。

ほかの短編にも一貫して感心するのは、辛い黒人の生活を描きながら、最後に彼らが生き続けることを示す点だ。ほんとうの辛さや悲しみは死ぬことにではなく生きることにある。死が悲しみを呼び起こすのだって、生きている人を介する。必ずしも死を批判するわけではないが、問題や出来事に対して、死をもって解決するのは、安易な終わらせ方ではないだろうか。どこからかそんな声が聞こえてきそうだ。たしかに、死から生まれるのは、他に対しての影響であって、その原因である問題や出来事に対しての姿勢はそこで潰えてしまうという事実はある。この本に出てくる主人公たちには、どんなに辛くとも生きようとする生のエネルギーが満ち溢れている。それが魅力的だ。

本書は全体のバランスがよく、物語によって書き方も多彩で飽きない。アメリカの黒人差別に対するヒューズの真摯な姿勢も十分伺える。個人的には、「そんなこたないす」、「どっちがどっち」という短編が気に入った。カバーの内側と、p.83にだけシミがあり、状態は良くはないが、とてもいい本なので、1500円にしよう。

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