2007/03/05

『旅の時間』吉田健一



この頃はロンドンを飛行機で朝立つと翌日の晩には東京の町を歩いていられる。実際に飛行機が飛んでいる時間はロンドンを朝の何時に立って東京に翌日の何時に着いたということで計算しても地球が東京の方からロンドンに向って廻転していて一時間である筈のものが刻々に縮められて行くから解らないが要するに一日を飛行機の中で過すということはその一日の意味に多少の幅を持たせさえすれば言える。(p.5)

冒頭の文章を抜いてみてもわかるように吉田健一の文章はとても読みにくい。なぜならそこに句読点が一つもないからである。試しに他にもう少し読みやすく書いているはずだろうということで、ユーモア・エッセイと題してある番長書房からの『酒・肴・酒』をパラパラとめくってみると、こちらには句読点が存在している。確かめるまでもなかったかもしれないが、やはり意図的に句読点を外している。ではなぜ句読点がないのだろうか。といって、すぐに答えのようなものが浮かんでくるはずもないので、読み進めていきながら、本書の大枠を説明してみよう。

『旅の時間』とタイトルにあるように各章にも「飛行機の中」、「昔のパリ」、「大阪の夜」などと地名や交通手段の絡んだタイトルがついていて、谷村、村山、山田といった名前なんてきっとどうでもいいような匿名性のある中年の男性がとある街やとある移動中に過ごした時間そのままに切り取っている。登場する中年の男性たちは、別人として(名前が違うからというだけだが)出てくるが、一様に教養が深く知的で物思いにふけやすい人物であるようで、現実に起こっている出来事と彼らが考えている思考が交差しながら、そのプロセスがそのままに書き写されている。どの章も別の人物の別の場所での別の時間という設定だけれど、それはあくまで物理的な現象に頼った区別であって、そこに描かれている時間にはあまりにも親近感がある。読み進めるながら、興味深かったのは、なぜだか本書は椅子に座って読んだり、ベッドに横になって読むのは、どうしてもうまく読み進めず、朝の通勤や夜の帰宅時などの移動中に読み進んだ。

そんな中で、偶然、買い取らせていただいた友人の本の中の一冊にヒントがあった。それはある対談の途中で出てきたアポリネールについての話である。それによると、アポリネールに "Le pont Mirabeau" という詩があり、この詩を二度目に収録することになったとき、彼は句読点を全部とってしまったらしいのである。そして、アポリネールはやっぱりアポリネールであるから「真の句読点は生のリズムだ」なんて、格好のいいことを言っていて、つまるところ、句読点をうった瞬間にその言葉は止まってしまったデジタル的なものになってしまい、流れ出る息吹ではなくなってしまう、ということだったらしい。これを読んで、おそらく吉田健一がやろうとしていた意図も、同じようなところにあったのではないだろうかと思った。

『旅の時間』は旅行記でも日記でもなくて、そこで起こっている時間そのもので、吉田健一はその時間そのものを再生しようと試みていたのではないだろうか。実際にその時間を過ごしていたときは、そこに起こる出来事と自分の考えは分離不可能なはずで、後で整理して書き直すから、考えていることと起きたことを区別して考えることが出来るに過ぎない。しかも、どちらが本当かといえば、おそらく分離不可能な方が本当(リアリティがある)であって、この点はここでは突き詰めて哲学的問題を引き出してくるよりも感覚で判断した方がいいような気がする。そして、分離不可能にするためには、句読点を打ってしまってはダメで、句読点を打たないからこそ、現実の出来事と考えていることが絡まり合うことができる。なぜなら、句読点があったら、そこを境に現実の出来事とその場で考えていることが整理されてしまい、アポリネール言うところの息吹ではなくなってしまうからである。そう思って、よくよく読んでみると、文の流れも句読点を置かないことを考えて書かれていて、まさしくすがすがしい生のリズムを出そうとしているようである。本書が読みにくいのは、普段とは別の次元の書き方がされているからで、それを普段通りに読もうとするから読みにくさが生じるのであって、読み方もずらしてみれば解決されるのかもしれず、移動中にうまく読み進めることができたのは、そこに起因しているのかもしれない。

誤解してはならないのは、文章におけるリアリティの表現ということでは、方法は幾多あるはずで、必ずしも現実に起こったことをそのまま書き写すような方向性が良いということではない。言いたかったことはこのやり方が吉田健一であり、そこに彼のユニークな印象を生じさせている原因があるのではないか、ということである。そして、アポリネールの一瞬で切り裂くカウンターパンチのような切れ味はなくとも、じわじわとボディーブローのように渋みのある小品を積み重ねながら、同様の鋭さを魅せる吉田健一のダンディーさもやはり抜群に格好がいいのである。