2006/12/12

『カスバの男』大竹伸朗



次から次へと新しい本が出るは、古本屋に足を運べば次から次へと古本も湧いて出る。そんな板挟みの幸せの前では、早くたくさんの本が読みたい!と渇望する気持ちが先行する。しかし、そんな中ですら、これは時間をかけて大事に読もう、と思わせる本に出会うことがある。『カスバの男』はそんな本の一冊だ。
なぜ大事に読みたくなるのかというと、厳密には千差万別であるが、いくつかのパターンはある。例えば『カスバの男』だったら、朝早く電車に乗って仕事に向かう時のような憂鬱なひとときにでも、パッとページを開けば、ほんの数分の間で別世界へトリップできるような力がある。トリップに必要な覚醒作用がどこから発しているのか、その源を探るのは難しいながら、そこには著者が芸術家・大竹伸朗である由縁が大きく関わっているのだ、ということは随所に感じさせられる。

フランス語しか話さぬタクシー・ドライバーは、ベルベル人の音楽が好みらしい。女のふるえる独特なボーカルが、この見たことのない夜の風景とあい、昔よく聞いた『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』の空気が僕の頭をよぎる。
街中に入り右手に大きな壁が続く。不定期に開いた穴が興味深い。
(p.85)

見たまま感じたままを切り取り、一節一節を下手に説明しようとはしない。言葉ではなく直感で納得できれば、それで良し。そんな感じである。日記的なスタイルと言ってしまえばそれまでのような気もするが、それだけでは説明しきれない何かがある。

読み終わり、ページをめくると、角田光代さんが文章を寄せていた。

この『カスバの男』ではじめて私は大竹伸朗という人を知った。無知な私は、この偉大な芸術家のことなど何も知らずこの本を手にとり、即座に引きこまれ、夢中で読み耽り、読み終えてすぐさま、モロッコ行きの航空券を買いに走った。(p.182、「解説」より)

なんと衝動的な行動!角田光代さんに対して何となく冷静なというか、少なくとも本を読んでそこに描かれた世界に突然行ってしまうなんて行動はとらないだろうと思っていただけに驚いた。たしかに解説を読むと、これは本当に行ったんだな、とわかるほど文章が生き生きしている。中でもハッとさせられたのは、

本書を読んでいてじつに興味深かったのが、作者がなんにでも素直に驚くことだ。
驚く、というのはじつにシンプルなことだが、だいたいにおいて大人は驚かない。大人にとって知らないことはすなわち恥だし、驚くことは知らなかったということを暴露する。
(p.186、「解説」より)

という一節。たしかにそうかもしれないな、と思うと同時に思考は飛躍して、文章表現の難しさは、「驚き」をいかに表現するかということに尽きるのではないか、という気さえした。小説を読んで、音楽を聴いて、映画を見て、もしくは旅に出て、これは驚いた!となって、そのことを伝えたいと切望する。しかし、驚きそのものを言葉にするのはあまりにも難しい。なぜなら、言葉にして理解することができたのだったらそもそも驚いてはいないはずである。驚きはいつだって少なからず「筆舌に尽くしがたいもの」なのだ。しかも「舌」ならば、目、口、手、足を使った縦横無尽のリアクションを織り込むことが出来るが、「筆」つまり言葉のみならば、文字の連なりに全てをゆだねざるをえない。

本書には、大竹伸朗の驚きの世界がそこには広がっている。それは角田さんが指摘する通り「私たちの知らない世界」であり、モロッコと大竹伸朗が接触して起きた「驚き」という爆発そのものである。そして、その世界から出てくると、被験者である角田さんが言葉を駆使し絶妙な文章で、私たちをトリップ状態からゆるやかに日常の世界へと戻してくれる。

モロッコの旅から四年たった今『カスバの男』を読み返してみても、私はやっぱりこの場所にいきたいと思う。今すぐチケットを買いにいきそうになる。けれどいかないのは、ここに描かれているのはモロッコでありながらモロッコではないと、私はすでに知っているからなんだと思う。大竹さんが描いたのは、私たちの知らない世界だ。そこへいくチケットはどこにも打っていない。この本を開くしか、そこへ足を踏み入れることはできないのだ。(p.190、「解説」より)

古本屋としては、数年前の絶版時に手にしたのち、ぐずぐずしていたら文庫で復刊され発売されるという苦い経験をした一冊だが、名著の価値は稀少性ではないし、こういう本こそたくさんの人に読まれるべき。まさに文庫本葉書に入れたい一冊。