2005/12/25

『山椒魚戦争』カレル・チャペック 樹下節 訳



『園芸家12ヵ月』もしくは、『子犬の生活ダーシェニカ』という本を知っていたのもあるけれど、この本に惹きつけられたのはなんと言ってもそのタイトル。『宇宙戦争』なんかより、謎めいていてずっといい。なんたって「山椒魚」だ。「園芸家」、「子犬」ときて、「山椒魚」と考えるならギリギリわからなくないが、続いて「戦争」とある。背表紙の「SF」マークや古い角川文庫にたまにあるタイトル文字のボールドっぷりにも期待をかけて読んでみることにした。

序盤のあらすじはこうである。

あらゆる航海を経験してきたヨット・ヴァン・トッホ船長。彼は真珠の入った貝を探して、誰も近寄らない「デヴル・ベイ(魔の入江)」に足を踏み入れる。するとそこには噂通り、海の魔物が無数にいたのである。海面からのぞく、無数の黒い頭。その海の魔物の正体こそ、今回の真の主人公たる山椒魚である。しかし、ここで山椒魚たちが大群をなして襲ってくるわけではない。彼らは、頭が良く、ひょうきんで人なつこい。貝の中身が食べたくて、真珠入りの貝を海の底から採り、サメを天敵とする人跡未踏の地に息づくささやかな存在である。

山椒魚は出てきた。登場からうじゃうじゃと。「戦争」という言葉から世にもおそろしい狂気的な山椒魚を想像していたら、人なつこいときている。ここでは、全く「戦争」など起こりそうにない。物語もここまではありきたりな印象で、特筆すべきところはない。しかし、序盤を過ぎたあたりから、今までは油断を誘うためのジャブに過ぎなかったことに気付いてくる。たった一つの小さいようで大きな発見。文明化された人間による山椒魚の発見から物語は展開していく。この本の面白さは、中盤以降、山椒魚の全貌がだんだんと明らかにされていき、人間の前に現れてくるようになる変化の様相と、その描き方にあるのだ。

第一部の最後には「(付記)山椒魚の性生活について」なる論文めいた文章が書かれている。

ところでこの本の作者は、われわれの住む地球の未来に一べつを与えるにあたって、いちいち実例をあげながら、山椒魚の未来の世界で、性生活がいかなる様相を示すかについても見解を述べたいと思うのである。

そこには「エイチ・ボルター」なる人物の見解、それに対する「ブランシ・キステンマッケル嬢」、「有名なチャールズ・ジェー・パウエル」などまことしやかな研究者の名前とその見解が出てくる。それは細にいりしっかり書かれていて、少なくとも普段から学術論文に親しんでいない身には、まるで本当の論文が掲載されているかのように感じる。もちろん、そんな山椒魚などいないわけだが…。そして第二部に入ると、物語はある人物が集めた山椒魚に関する記事を次々と覗いていく形で展開されていく。ここでも、紹介される記事の細部にわたる書きっぷりは特筆すべきで、そのディティールの在り方は物語をつむぐ文章というよりも、一つの世界の歴史を描き出そうとするかのような印象がある。文章が単なる物語として消化できる閾を出て、シミュレーションとして成立ほどの現実味を持ちうると、一つの歴史が認識され「世界」が立ち上がってくる。

一読すると、現実味に溢れているのは確かながら、物語の中で綴られる事件にはどこかで聞いたような既視感は拭えないなと感じる。しかし、よくよく考えてみれば『山椒魚戦争』が書かれたのは1936年。2005年も終わりに近づいた現在にそれを読んで、既視感を感じるということは、もし36年以降の出来事に対して既視感を感じているのだとしたら、それは彼のシミュレーションを現実がなぞったということだ。一例をあげると、「Xは警告する」という章がある。「X」は、英語におけるキリストの略字であることを考えれば、そんな偶然はいくらでもあるかもしれないが、ここで登場する「X」の語りの過激さ、ある勢力の中で「一番筋金入り」で「大きな反響」を呼び起こしたという点に、やはり「マルコムX」の姿を思い浮かべざるをえない。ちなみに、マルコムXが「X」の性をネイション・オブ・イスラムから授かったのは、チャペック没後14年目の1952年である。

シオドア・スタージョンの『ヴィーナス・プラスX』を読んだときにも感じた、しっかりとした思想に基づいた上での妥協しない緻密な描写が、単なるエンターテイメント性を遙かに超え、凡百の作品の中で一段レベルの違う位置まで作品を昇華させている。他にもこんな力業を感じるSF作品を読みたいと思わされる。本書は角川文庫だけでなく、創元推理、岩波文庫、小学館からハードカバーでも出ているらしい。他は手にしていないが、本書に関して言えば、表紙がださい上に、さしえも期待を裏切らずださいから心をくすぐられてしまう。最近ではなかなか出てこない感じである。状態はそこまでよくなくC程度だが、700円くらいはつけたい。

2005/12/01

『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン 藤本和子 訳



表紙の写真がいい。はじめに、表紙について語られるが、それは裏に映るベンジャミン・フランクリンの銅像について。やっぱり手前の男性と女性の印象こそ強い。女性はきれいに服を着ているスレンダーな女性だが、出っ歯なのが見え、幸が薄そうでどこか滑稽だ。男性の方はいかにもアメリカが一番だというような立ちっぶりに頑固そうな表情をしている。服装も含めて、扱いづらさを感じる。友達になるのは至難の技だろう。映画俳優なら、キレてショットガンをぶっぱなす配役が似合う。「グライダー・クリーク プロローグ」で鼠に三八口径の連発ピストルを打ち込む男もきっとこんな感じだろう。と思っていたら、これがブローティガンなのだ。

最近、彼の遺稿の邦訳が出版されたり、クルーの松尾さんがその関連だろうと思われるトークショーに「行ってきまーす。」と言っていたり、ボンヌが日記的用語集をブローティガンで書いていたりして(近日公開予定)、その矢先に、古本屋でこの本を見つけた。新刊が出ているにしろ、表紙がいい上に、犀のマークも一押しをして、読んでみる気になった。

ブローティガンというと、「ビートニク」という言葉を思い浮かべてしまうけれど、反逆的な姿勢はあまり感じない。あとがきに、「ビートニクの時代には、どうしていましたか?」という質問に対して、「…ぼくはその運動には参加しなかった。連中のことは、人間として、好きになれなかった」とある。そもそも「ビートニク」という言葉の印象が曖昧だから困る。タイトルに「釣り」とあるのだから、呑気なレジャー気分は終始漂っている。ちなみに、「鱒」は辞書で調べると、分類上はサクラマスのことなのだが、東京では、カラフトマスをマスと俗称し、サクラマスはホンマスと呼ぶなど、名称は混乱しているらしい。ブローティガンの足の向かう先はクリークであるから、ここではおそらくヤマメのことを指しているのだろう、そして鱒釣りとは、渓流釣りなのだろう。

描かれる内容は、特定の場所にはりついているから固有名詞が多く、その上幻想的でもあるから、集中しないと字面だけを追うはめになりやすい文章である。しかし、独特の雰囲気はたっぷりあって、たまに食べたくなる味、もしくは、ふらっと温泉につかりに行くような気分でまた読みたくなりそうな感じがある。特に些細な対象への接し方なんかがいい。

掘立小屋からちょっとのぼったところに屋外便所があった。扉がもぎとられそうな感じで開いていた。便所の内部が人間の顔のように露わになっていた。便所はこういってるようだったー「おれを建ててくれたやつはここで九千七百四十五回糞をしたが、もう死んでしまった。おれとしては、いまはもうだれにも使ってほしくないよ。いいやつだったぜ。随分と気を使って、おれを建ててくれたんだ。おれはいまは亡きおケツの記念碑さ。この便所には匿さなくちゃならんような秘密などないよ。だからこそ扉があいてるんじゃないか。糞をしたけりゃ、鹿みたいに、そこいらの茂みでやってくれよな」
「くたばりやがれ」と、わたしは便所にいってやった。「おれは川下まで車に乗せてって貰いたいだけなんだぜ」

(p.20-21)

これは対象が便所であることも相まってまとまりすぎている感があるが、こういった主観的に立ち上がる距離感、ゆるやかな温度に魅力がある。

藤本和子さんのあとがきもブローティガン風の前半に続き、作品解釈の後半があって詳しい。「かれの作品をいくつか読むのなら、『アメリカの鱒釣り』から始めるのがいいと思う。また、もし、ブローティガンの作品はひとつだけしか読まないというのなら、『アメリカの鱒釣り』がいいと思う。」なんてことも書かれている。偶然だけど、始めに読んで正解だったようだ。「はじめに読むべきでは決してない。」なんて書かれてたら、気分が悪かったろうからよかった。そういえば、後書きに関することで、上下巻ある作品なのに、上巻のあとがきで結末を語るようなものは「本当にふざけやがって!」、という気になる。名作だからって、こんなことはしてほしくない。こんなあとがきを書く人に限って、たいてい文章も傲慢でよくないのだ。

1976年の7刷だが、状態は悪くない。新刊が1680円だから、700円くらいでどうだろう。