2005/11/04

『映画芸術 1970年3月 NO.271』



『キネマ旬報』は戦後復刊してから今も続く映画雑誌だ。戦後復刊してから、1960年代までのものは、表紙に海外の女優さんの写真が配されて、よき時代の映画の姿が感じられる。そんな姿にまいって、「映画俳優に見せられて」というキネマ旬報の特集ページも前に作った。そんな経緯もあって、ブックピックでは、キネマ旬報を多く扱っている。しかし最近、映画雑誌でもう一つ今もがんばってる『映画芸術』に出会って、店頭でペラペラやってみたら、こちらもかなり面白そうだ。

『映画芸術1970年3月号』でまず気になるのは、寺山修司、唐十郎という名前で、表紙をめくると、目次の裏に天井桟敷の広告なんかが載っている。キネ旬の70年代はしっかり読み込んでないが、60年代以前を見た感じだと全然違うし、アングラ色が強いのが当時の『映画芸術』の色なのかもしれない。あと、エロの匂いも漂う。前に一度だけ買ったときの号は、ポルノ映画ランキング特集だった気がする。そして、今号でも寺山、唐を抑えて、巻頭に「Cinema Eroticism」と題し、裸の男女のカットがある。どうでもいいが、このころの外人ポルノ男優は、みんなヒゲづらな気がする。ここでもヒゲだ。続く「続・いそぎんんちゃく」という映画広告のコピーも気をひく。

 ボインが
 五センチ、アップ!セクシームードは
 十倍アップ!…

 (p.24)

改行、句読点の位置が絶妙だ。だが、言われなければ、上映中に「五センチ、アップ!」に気づくかどうかははなはだ疑問であり、セクシームードに関しても主観の問題である。

「異色映画論」では、寺山、唐を筆頭に、増村保造、鈴木清順なども顔をそろえ、文章には勢いが感じられる。鈴木清順の文章は、本人の言葉で思考を実況中継しているようでさえあり、かなり長い文章に改行は一カ所しかない。芥川龍之介、太宰治と、文学の作家は自殺しているのに、小津安二郎、溝口健二、川島雄三はみんな病死だ。なぜ、映画監督は自殺しないのか、と考えながら鈴木清順はヴィスコンティを見る。自分自身と自分の魂を同時に登場させるというアクロバティックな書き方だが、結局どちらもヴィスコンティを否定する態度であり、「此の監督には自殺への思考の一かけらもなければ、…何故映画監督は自殺をしないのか、の問いを笑って蹴飛ばすタイプと見えた。」とある。事実、ヴィスコンティは、自殺することなく76年に病死している。増村保造の文章は対称的で、理路整然としてエリア・カザンの当時の新作「アレンジメント」を批判する。一方、寺山修司は、増村と同じく、「アレンジメント」を題材としながら、自分の体験に重ね、寺山節にしていて、増村とは全く違った趣がある。これは寺山節に引っ張られ、作品からは引き離されている印象もあるが、読み物として面白くなっているのは、さすがである。

他にも、種村季弘、飯島耕一の文章があったり、「革命的エロチシズムは神話か フリーセックス映画の流行」なんて特集も気になる。また、読みやすさなんて二の次でスペースを全く無駄にしないレイアウトには感銘を受けた。改ページだろうと思われるところでも決して余白を作らないスタイルからは、それを買う映画狂人たちの文字に対するどん欲ささえ感じられてくるからすごい。実際、1400円くらいでもいいんだが、その姿勢を買って1600円くらいはつけたい。

そういえば、書評欄で中井英夫が小栗虫太郎『黒死蝶殺人事件』を日本近代における「天下無双の奇書」なんて褒めている。小栗虫太郎は澁澤龍彦が触れていて気になっていたが、中井英夫もここまで言っているなら読まなければ、と思わされた。こんな拾いものがあるのは、古雑誌のいいところだろう。

0 Comments:

コメントを投稿

Links to this post:

リンクを作成

<< Home