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わたしたちは本を読む。
ページをめくる。
栞がわりに切符をはさみ、そのまま失くす。
擦り切れる紙。
本は物語を包んでいる。
色とりどりの装丁がある。
活字や電子媒体がある。
それでも物語はそのなかに身を隠す。
みなさんは、物語はなんのために存在してると思いますか?
みなさんにとって物語って、どんな役割を持っているんでしょう?
そもそも物語って、いったいぜんたい、なんなんでしょうね。
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ところでわたしは、物語って
じぶんの人生を消化するためにあるんだと思います。
ここで寄り道して、物語や言葉のプロフィルを追ってみましょう
わたしのぼんやりした概観になってしまいますが。
猿が立ち上がり人間になりました
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狩りや何やかやのコミュニケートのため
人間が言葉をもつように
↓
花を咲かせたり、嵐を起こしたり、
人間を生かして殺す自然を不思議に思い
言葉で解釈するようになる
これを神話という
↓
人間が家に住むようになる。
炉端でおじいちゃんおばあちゃんが
孫たちにお話を聞かせてくれる。
たいていその村に伝わる言い伝え、戒めである
これを民話という
↓
韻を踏んだ言葉でリズムをとる語り部
そして更に唄い踊る者も
こうして演劇や詩が生まれる
↓
言葉は人々に浸透していったが
文字というのは豊かで教養のある
ひと握りの人にしか扱えなかった
西洋においては、聖書を朗読するというだけで
祈りと同等の尊い行為だったのである
↓
グーテンベルクが活版印刷を発明
一気に文字が民衆のもとへ広がる
↓
お江戸では民衆文化のもと木版文化が花盛りであった
しかし明治維新。文明開化。
明治近代人は西洋的自我のもと悩み始める
ここで物語は自分を語るための存在であった
そしてやはり一握りの文化人しか物語を得ることはできなかった
↓
平成の世では文壇崩壊。ブログ流行。
ようやく一般の民衆が各々の物語を持ち始める
じぶんだけの物語をみつける
いつの時代も人は何かを消化・解釈するために
言葉と物語を使ってきました。
それは恐ろしくも美しい自然を解釈するためだったし、
不条理なる近代と自我を解釈するためでもあった。
いくら劇・詩・小説と形を変えても、
物語はいつの世にも存在しています。
いくらその形式や媒体が変わっても、
物語はいつの世にも存在しています。
変わらないのは、わたしたちが何かを乗り越えるため、
説明をつけるため、昔のことを思い返して消化するため、
物語を作り続けてきたという美しい事実です。
言葉と物語と文字は、高貴なる人のもとから
一般民衆のもとへと降りて浸透していったのです。
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ここでミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を紹介します。エンデは「金」「時間」に縛られる近代を批判し続けた人でした。そして愛を信ずる人でした。そんな彼の書いた『物語』とはいったいどんなものだったのでしょうか。
*ちなみに映画の「ネバーエンディングストーリー」はこの本を原作としています。
あのテーマ曲は流行りましたねえ~
フッフールの陽気な造形もなつかしいですね!
けれども例によって、映画は本と別物です。アレはアレで良いんですが、やっぱり本じゃないと伝わらないものもあるんです。特にこの本の場合。エンデは映画の出来に憤ったと言われています。そこでエンデ自身は「モモ」映画化に携わり、こちらは納得のいくものができたようです。
主人公はバスチアン・バルタザール・ブックス。
太っちょでのろま。
病的なほどの心配性でサプリメントを1日に何粒も飲みこむ。
学校では先生やクラスメイトにからかわれてばかりいる。
ほとほと人生に嫌気が差している。
(学校嫌いのところなんかエンデの幼いころにそっくり)
お母さんは死んでしまい、歯科技工士のお父さんと2人暮らし。
でもお父さんはバスチアンと話していてもバスチアンのことを見ていない。
ここじゃないどこか遠くを見つめている。
そんな彼は、じぶんでじぶんに物語を作ってあげるのが大好きで、大得意なんです。
まるでわたしの、そしてあなたの幼い頃のようですね。
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ある日バスチアンはいじめっ子に追いかけられるうち、
カール・コンラート・コレアンダー氏の古書店に辿りつきます。
そこで表紙があかがね色に輝く、
「はてしない物語」という本をみつけるのです。
まるでわたしが、あなたに紹介しているこの本と同じみたいですね。
表紙では二匹の蛇がたがいに相手の尾を咬み、楕円につながっている。
終わらない読書を夢みていたバスチアンは
かっとなってその本を盗んできてしまうのです。
そして学校をさぼり、1人その本を読みふけります。
学校の物置のなかで。体育用マットにねそべり、毛布をかぶって。
虫にくわれた剥製の狐やふくろうや鷲のいるなかで。
蝋燭をともして。
ここからは、バスチアンの描写は緑の文字、物語の描写は赤の文字で
印刷されています。
その物語の舞台はファンタージエン。
幼ごころの君が統べたもうこの国では、幼ごころの君が健やかであれば国も健やかに、幼ごころの君が病に臥せれば国も滅亡に至ります。
しかし今、ファンタージエンはまさに滅亡の危機に瀕しているのです。
幼ごころの君が重い病に臥せっておられるのです。
そこで“緑の肌族”の少年アトレーユに白羽の矢が立ちます。バスチアンと年の変わらない少年です。それなのに、ファンタージエンの命運が彼の双肩にゆだねられます。「幼ごころの君の病を治せ、そしてファンタージエンを救え。」
彼は幼ごころの君の任命を受けた者がもつ印である“アウリン”を持って旅立ちます。
アウリンとは、
二匹の蛇がたがいに相手の尾を咬み、楕円につながる形をした装身具。
まるでわたしがあなたに紹介している本の、表紙のようですね?
そしてバスチアンが夢中になって読んでいる本の、表紙のようですね?
緑の文字のバスチアンは
赤い文字のアトレーユを読み進め、後を追います。
彼は彼の冒険に夢中になり心からの賛辞を贈ります。
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ところであなたはこう思ったことはありませんか。
物語の中の世界に入りたい。
そこに生きるわたしはきっと、こちらのわたしより優れているはずだ。
物語の登場人物に話しかけたい。
わたしたちはきっと気の合う友だちになれるはずだ。
バスチアンもこうつぶやいています。
本って、閉じているとき、中で何が起こっているのだろうな?
そりゃ、紙の上に文字が印刷してあるだけだけど、――きっと何かがそこで起こっているはずだ。だって開いたとたん、一つの話がすっかりそこにあるのだもの。ぼくのまだ知らない人びとがそこにいる。ありとあらゆる冒険や活躍や闘いがそこにある。――海の嵐にであったり、知らない国や町にきたり。みんな、どうやってかわからないけど、本の中に入っているんだ。読まなくちゃ、そういうことをいっしょにやれないわけだけど。それはわかっている。だけど、それがみんな最初から中に入っているんだ。どうやって入っているのかなあ?
どうやって入っているんでしょうね?
エンデはその謎を、この物語を書くことによって、解明してみせました。
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わたしはここまでで、この話のホンの序の口を紹介したに過ぎません。
と言うよりむしろ、この話を紹介するのは極めて難しいんです。
これはもう読んでいただくしかありません。
ネタバレのした本なんて読みたくないでしょう? だからわたしは何も言えません。
粗筋ならば他のサイトさんの方が詳しいでしょうので、そちらを読んでいただくのも1つの手です。ですからわたしは、わたしに言えることだけを書きます。
あなたも、この物語を読むことによって、「物語がまるまる本に入っていること」の謎を解明することができます。
この物語はまさに『読書体験』そのものを描いているのですから。
バスチアンは物語を読む。
物語に呼ばれる。物語に入り込む。
そして色んなことを感じ、学び、体験する。
読書を終えたとき、バスチアンはもう元のバスチアンではないのです。
そして、そんなバスチアンを読むのもまた、あなたがたなのです。
わたしたちは喜びや哀しみを消化するため、物語を読みます。
読み終えたあとのわたしはもう、読み始める前のわたしとは違う人物です。
読書体験は確固たる体積をもってわたしに訴えかけます。
そしてわたしたちはまた暮らし続けます。
わたしたちは皆
『はてしない物語』という名の人生を生きているのです。
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いつものように長くなってしまいましたが、今日はこのへんで終わります。
「はてしない物語」は岩波書店から出ています。たいていの本屋さんに置いてありますよ。
岩波少年文庫からも出ているのですが、こちらは上下分冊になってしまい、しかも中の文字が緑と赤とに分かれて印刷されてないんです。初めて読むひとは、図書館で借りるので充分ですから、ぜひハードカバーのどっしりした読み応えを味わってくださいな!
あなたも「あかがね色の表紙」に特別な思いを抱いてくれることを願って。