角田光代(20051002sun)

 一人暮らしを初めてわりと長くて、気がついてみると人生の4分の1はひとりです。っていうとちょっと寂しい響きですが場所を移ったりすると新鮮になったりするので別になんてことはないです。

 でもそういうこととはちょっと違った感情が最近芽生えてきていて気がつくと「家族ってなんだっけ?」ということをよく考えたりしています。

 「家族とは、一緒にご飯を食べる頻度の多い人たちのことだ」ということに突然気がついたことがあります。それはたしか大学生の頃、海の見える中華料理屋さんでアルバイトをしていたころで、それは夏休みだか冬休みの時期だかにとにかくほとんど毎日そのバイト先に行っていたときで、そこでは私がバイトを始めるにあたっての職場選びの大事なポイントであったまかないが出るのですが、それを一緒に働いている人たちと食べているときにぼんやり思い浮かんだのです。丸い円卓に載せられたおかずを囲んで、今日の客のこととか、明日の予約のこととかの店長のこととかの仕事の話やらを、誰かが持ってきたお菓子を食べながら、だらだら話している。一緒にいるから、なんとなくお互いがある程度情報を共有していて、話す内容があって、時々自分の彼氏の話とかしたりして、その人と知らない誰かをつなぐ話も出てきたりする。

 それはとても遥か昔、家に帰ってご飯を食べながら今日はあの子と遊んでかき氷食べてきた。とか学校で絵を描いた、とかそういう自分のことを食卓で報告するかんじ(たとえそれがある程度のフィクションを含んでいるにせよ)にとてもよく似ていると思ったのです。

 だから私は一緒にご飯を食べる人たちの集団を「テンポラリー家族」とひそかに呼んでいます。次の瞬間には別れてしまって、またいつ会うかわからないかもしれないけど、同じものを食べて、話をする。人との関係というのは、一緒に歩いたり、一緒に仕事したりする、つまり「一緒」の感覚が生み出してくれるものがとても大きいのだろうと思っていますが、「ひとり」よりは大きく、「家族」の単位としては関係の最小単位が恋愛だったとして、それの大きなファクターが「一緒に寝る」ことだったとしても、私はそれよりも一緒に食べることにもっと「家族」であることの必然性を感じます。「同じ釜の飯」といいますが、血や肉の元が一瞬だけ一緒になる。体の一部を共有するような感覚。

 なんとなく変な先入観があって、読んでいなかった角田光代さんの著作は『今、なにしてる?』をなんとなく読んでみて激しく嫉妬し(いろんな意味で)、『あしたはうんと遠くへ行こう』で旅の暇つぶし的な気持ちで読んでうちのめされました(この本についてはいろいろ思う所あったので、またいつか書きたいと思っています)。技巧的にもいろいろ遊べる人だと思うので、いろいろな趣向やスタイルがあって、すべての作品が好きかというとそうでもなく、むしろ好きな作品と嫌いな作品がくっきりわかれるという、わりと作家に惚れてしまうタイプの私の感覚としては珍しい作家なんですが、それでもこの人の小説を見ると多くにおいて、主人公をめぐる基本的な単位は「ひとり」なのだけど、その「ひとり」同士がユニットしていく感覚というのをよく描いているように見えます。なんとなく、一緒になるかんじ。一緒にいるかんじ。必然ではなくて、だた、その空間にいる、そして多分そこには食事がいつか出てくる。彼女の小説で食事の場面が印象的だった覚えはないのですが、その「だらだらと一緒にいて、ご飯食べる?とかって言ってもそもそ食べる。だらだら話しをしながら。」という風景がなんとなく小説の中にさりげなく入っていても違和感のない感じがするのでした。そういう日常のリアルさが節々にあるのです。

 なんでこんなことを考え始めたかというと、最近、かなり似た状況になったからでした。今友人3人でルームシェアをしているのですが、先日の大きな連休を二つはさんだ週にいつもはいない3人がよく家にいて、なんとなく一緒になるのでご飯を食べたりしていたのです。友達を読んでお誕生日会をしたり、別の用事で昼はいないけど夜はお互い帰ってきていて、じゃあご飯食べますか、となってみたり。そこで話されるたいして意味のない、でも記憶され、いつの日か思い出すかもしれない会話。時間と場所を共有して、同じものを食べたりするという不思議。多分この人たちは私の母親よりも東京の私のことを知っている。実家と私の間にある空間的な距離感はやはり私と彼らとの間になんらかの溝を生み出している。それは独り立ちとか自立とかそういうことではなくて。ああ、一緒にいることって、一緒に食べることって大事なことだ、と思ったのです。

 たしか小学校のときからずっと私は大きくなったら一人で暮らすんだ、ということを思い続けていました。それは家が嫌だったとかではなくてただ単なる予感でした。家をきっと出るのだろうな、という。そして実際暮らしてみて、「本当に一人」の感覚なんて、誰かと一緒であろうが渋谷の群衆の中であろうが訪れることを再確認したけど、一人でご飯を食べる孤独感はまた別の問題だということを知った。別に一人でご飯なんて食べられるけど、偉大なる岡崎京子さんの言葉どおり一人で食べるご飯、それは「エサ」なのでした。

 はじめてこの「日記的用語集」に書き始めたのが2年前の今頃で、その頃はこの気持ちが本当に強くなっていて、他人が一緒にご飯をたべるシステムを持つコレクティブハウスに入居しようか本気で考えたりしていて、結局もっと小さい単位でかなり自由意志なかんじではありますが、シェアという形で時折コモンミールしたりしているわけですが、

シェアを始めるにあたって最初2年暮らしてみて、その後どうするか決めよう、という話で暮らしはじめてそろそろ2年が経つので、このある種の幸せだった関係はなくなるのかもしれません。誰かが出て行くかもしれないし、その代わりに誰か新しい人が入ってくるかもしれないし、みんなここにいなくなるのかもしれない。それはこの1、2ヶ月のうちに決まります。哀しいような。哀しくないような。でもむしろ、それを惜しがるという気持ちよりもそれはなにか貴重で美しいもののように思えます。流れて行く川の流れや今の時期の夕暮れの日の光みたいな。

 角田光代さんて多分知らないけど引っ越し魔のような気がする。『あしたはうんと遠くへいこう』でも、主人公は気持ちいいくらい前のものを捨てて、新しい場所へ移って行く。彼女の書くエッセイについても然り。捨て上手なんだな、と。捨て下手の私にはとても羨ましいことです。

 それでもやっぱり私は捨てられないのだろうと思う。モノはそのうち捨てなければシャレにならないのだけど、清少納言風に言えば捨てたくないもの。おもひで。です。おかしなCMの文句みたいで馬鹿みたいだけど、いつかは忘れてしまうかもしれない、それでも一緒にいて、食べて、瞬間的に家族を形成したあまい輪郭。そして次の瞬間にはゆるやかに溶けて行くもの。その余韻。忘れてもかまわない。そこにだってあったんだもの。それは、私たちのからだにいつかゆるやかに溶けて行くのですから。(Bonne)


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