| 新宿(20050202wed)
先日、友人がやっている企画、東京まちビバークに参加してきました。この企画は毎回、テーマとなるある街を決めて、まずその街に詳しい人にガイド役として話を聞き、それから実際にフィールドワークをするというもので、今回テーマとなる場所は新宿。新宿といえば、私だって大学に入って以来、ほぼ毎日といっても通過している場所なわけで、伊達にボケボケ通り過ぎていたわけではないぞ、と意気込みかけたのですが、言わずと知れた大都市ともなれば誰だってガイド役になれるくらいの経験をつんでいるもんだというわけで、今回は、とりあえず数人で集まり、いくつかの質問に沿いながらああだこうだと、新宿について考えていくことになりました。
この話し合いの結果は、いずれウェブか誌面で公開されると思うので、ここでは個人的な感想を少し語ることにしますと、最も驚いたのは、あれだけ何度も行っているのにさてどんな街かと問われると、まるで何も思いつかないことでした。デパートに映画に電気屋に飲み屋にと、なんでもある街だからとらえどころがない、といいわけもできますが、その思いつかない様は、今まで自分がこの街について考えたことがなかったかを痛感させる類のもので、いかに街の表面を流れる情報に流されていただけかを知らされることになりました。実は、ふらりと散策した下町なんかよりも、日常にとけ込んでいる分、しっかり新宿という地について考えたことは少ないのかも知れません。
そんな反省をしながら、とぼとぼ歩いていると、最近は何かと「新宿」という字が目に入ります。物事というのは、気にしだすとまわりがみんなその話をしているように感じるもので、きっと何かちゃんとした理論立てもあるのでしょうが、受験や就職活動など節目の行事が自分になった時を思い出せば、やたらと道行く人がそのことについてはなし出したように感じた覚えがあるはずです。とはいえ、今回は個人的な要因だけでないような気もしていますが。
とにかく、目に入った「新宿」の一つが、新宿から歩いてもすぐの初台オペラシティーアートギャラリーでやっている『荒木・新宿・森山』展。ここのギャラリーは、平日も8時までやっていてくれるので、バイト帰りにちょうどいいやと、ふらっと寄ってきました。展示のメインは去年の夏に、荒木経惟と森山大道の二人がある一日、新宿の歌舞伎町界隈を歩きながら撮り下ろした写真で、それに過去のものを合わせて、テーマごとにいくつかの部屋に分けた展示がされています。チケットにスタンプをポンと押してもらって入口を入ると、一部屋目から、夏に撮り下ろした二の写真が並びます。さすがに現代日本写真界の巨匠二人といった感じで、アラーキーの写真はとても気軽に撮っているようで、何かハッとさせられるものがあり、それに対して森山さんは一枚一枚が刻みつけられたような深さや重さのようなものがあります。続いて、二部屋目、三部屋目には森山さんの作品がならび、一部屋目の感想を強めるような迫力です。例えば、ただのビルの隙間も彼に撮らせると、まるで押井守監督作品に出てくる近未来の風景のように語りだし、手すりを握っている手のアップだけでうるさいほどに感じます。すれ違う人々の一瞬を切り取ったものは、まるでサスペンスの冒頭のようで、これから始まる血なまぐさい事件の臭いさえしてきます。ヴィム・ヴェンダースがエドワード・ホッパーの「夜更かしの人々(Nighthawks)」から受け取った印象もこんな感じだったのでは、とつい思考が飛びかけました。四部屋目からは、アラーキーの過去の作品が現れます。森山さんが平凡であってもそこに深みを加えてしまうのに対して、アラーキーは背後に深い物語を持つような対象でも、あくまで表面的な薄っぺらい明るさで乗り切ろうとしているかのような悲しさとやるせなさがあって、寺山が愛情をこめて娼婦の物語を語りながらも、半ば自己批判も含んでいるようにつき離す文章を読んでいるような気にさせます。
その後にも、荒木の連作や森山のポスターを撮影した写真など、両人の多彩さを感じさせる作品の展示が続く1Fを見終わり、見応えあったなーと思いつつ、さてもうすぐ閉館だから、2Fの寺田コレクションはざっと回るだけで、、、と思ったら、なんと今回の展示は2Fも企画展示が続いているではありませんか。急ぎ足で階段を上がると、2Fでは今見てきた作品を撮影した日の二人の様子が映像と写真で展示されていました。壁に寄りかかってそれぞれの動きを見ていると面白くて、アラーキーと森山さんのタイプの違いがはっきりわかります。例えば、アラーキーの場合は被写体にイヤな顔をされてもおかまいなしで、「サンキュー」なんて、また金色の靴なんか履いた派手な格好で言ってるのに対して、森山さんは撮られた人はきっと気づいていないだろうと思うような距離で撮っています。それから、再び1Fの写真を振り返ると、こちら側を見つめる視線がアラーキーの写真には散見されますが、森山さんの写真には見られません。距離が近いと思ったら、その被写体はのけぞって寝ていたりします。しかし、かといって、荒木と森山が明と暗に例えられるかと言うとそうでもなく、サングラスをかけ、帽子をかぶり、ひげをはやして変装したように自分を見せない荒木経惟に対し、森山大道がいたって自然体に見えることも確かで、その後、まもなく閉館のアナウンスの流れる中、もう一度、1Fの写真を見直しながら、coyoteのウェブページで、アラーキーが「森山大道がブラッサイなら、私はアッジェなんです。森山さんの方がかっこいいな」といっていたのは、言いえて妙だなと思うのでした。
そして、もう一つの「新宿」は、阿部和重の本でした。先日、芥川賞の発表があって、ついに阿部和重が受賞となり、いやーよかったよかった、と思う半分、やっぱり阿部くんは大きな賞はとれずにいて、中原昌也と二人でやってられねーよ、とか言っていてくれた方がこれから先、いい作品が出てくるんじゃないかというような複雑な気もしながら、本屋に立ち寄ったら、「グランド・フィナーレ」が出たばかりだったので、勢いづいて買ってしまいました。受賞作の「グランド・フィナーレ」は、芥川賞ねらいと言われれば、中・短編の長さにまとめようとしている感じもしますが、今までの作風を感じさせつつ、世界情勢に並行して物語が進んでいることが示され、過去の作品と同じ世界のなかで出来事が行われている点や、登場人物の一人称の語りの中に印象のズレがさりげなく感じられるところなど、新しい世界観の片鱗が伺える内容だったのではないかしらん、と感じつつ、本の中に「新宿ヨドバシカメラ」という短編が入っているところで、また新宿を目にしたのでした。そこではかなり強引で新鮮な方法で新宿と一体化し、ヨドバシカメラを文学的モチーフと称し、新宿が語られているのですが、そこで特に気になったのは、最後の方に言っている一言でした。
「カメラはわたしたちの姿をみえるものとして写し取るだろうーしかし同時に、現実の不可視性を意識させる、淀的な装置でもあるのだ」
これを読んで、保坂和志が「カンバセーション・ピース」の中で、幽霊めいたものに対して、カメラの登場が幽霊のような目に見えないものを意識させたというようなことを言っていたのを思いだし、どちらともとても似たような感覚から書いたような気がしました。保坂さんの小説ではこの曖昧さをどのように解釈していくかというやりとりが一つの全体の軸になっていること、「グランド・フィナーレ」の中でもカメラによって、娘を目にすることすら出来ないという現実の不可視性が強調されていたことを考えると、カメラにまつわる現実の不可視性、もしくは目に見えないものというのは、今日の何かカギになるような概念なのかもしれません。
この仮説を前提に、再び新宿に目を向けてみると、この街は20世紀後半以降の発展によって、最も現代的な意味で目に見えにくくなってしまった街といえるでしょう。そして、新宿が象徴するその現代的な幽霊の存在に対して、阿部和重や保坂和志は小説を書かされ、荒木経惟や森山大道は写真を撮らされているのかもしれず、自分はといえば、とりあえず電車に乗せられ、積極的に家へと移動して行くのでした。(川上)
「森山・新宿・荒木」展ホームページ:http://www.operacity.jp/ag/
「グランド・フィナーレ」阿部和重はbk1で。
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