ヴォルフガング・ティルマンス(20041016sat)

作品と作家は別のもの、というのは間違っているけれど、正しいと思います。間違いというのは、感動、理想、思惑や策略など、自分の内外のいろんなことに無意識のうちに影響を与えられながら、作家の見ている景色が、作品をつくる手を通して作品にうつりこむものだから。正しいのは、歌声にうっとりしていた歌い手を写真でみて、がっかりしちゃうように。数百万人を泣かせるピュアな物語が、広告会社のマーケティングの積み上げでできているように。いずれにせよ作品を大好きな相手に会うのはすごく怖いです。既にアウトプットだけでぐっとつかまれているのであれば、敢えて好き度が半減してしまう落胆リスクをとらない方がよいかもしれない…。

いまをときめく写真家ヴォルフガング・ティルマンスのアーティストトーク。オペラシティアートギャラリー始まって以来であろう混み具合の廊下で、長蛇の後方に並びながら、そんなことを考えました。そうして会えたティルマンスはうれしいことに、「奇妙な、説明のつかないことが好きだし、それをそのままとりまとめて生きていくのが自分」という、作品とぴったり同じ空気を放つ人でした。

写真を言葉で説明することは、無意味です。だから、ティルマンスの写真を見たことがない方は、この文章を読んでも意味がわからないかもしれないけれど、ぜひいちど見てどう感じるか、ご自分で判断いただきたい。写真については説明できないのですが、人としてのティルマンスを見て、話を聞いてつよく心に残ったのは、こんなことです。

ティルマンスの写真は、あくまでナチュラルな周辺世界を撮ったように見えます。でもそれは、写真を撮る目と手を動かしている、彼の心と頭の中にあるビジョン(「観察し、分析し、向き合うこと」「こう撮りたいと思うものが、最近では技術的に解決可能になっている」)や、写真についての考え(「オブジェとしての写真」「コピーに心動かされる不思議さ」)、そういったものに支えられているということです。それが展示のレイアウトに反映されるように腐心したとのことですが、たとえば連続した5枚の写真の並び方が「観察すること」をキイにしていることなんて、私は言われるまで気づかなくて、目で見る以外の、頭や心で読み解くことへの無自覚みたいなものを、自分の中に見つけました。圧倒されたい。奇抜なアイディアとかニッチなニーズとかそういうものじゃなくて、発想を育てたり、時間をかけたり、機械的・手工業的技術を駆使したりして、私が作ることができないものこそをアートに見せてほしいと思っているものです。ティルマンスの写真は、表層のかっこよさ、自然さ、美しさだけでなく、彼の考えや興味がものすごく念入りに表現されているのです。ティルマンスに惹かれるわけのひとつがわかった気がしたのでした。

トークが終わった後、満員電車から降りるみたいにごった返したギャラリーを抜け、出口へ急ぐ通り道で作品をちらりと見て、発見したこと。エリザベス・ペイトンという、OASISのギャラガー弟とか、クロエ・セヴィニーとか、あるいは自分の恋人を描く女性画家がいて、私はとても好きなのですが、たぶんその理由は、彼女が自分のすごく好きな対象を見つめるときの、きらきらした視線がうつりこんでいるからなのです。ティルマンスの写真も、同じなのでしょう。彼が強く惹かれた男の人や女の人を撮るとき、その対象が彼をひきつける吸引力までも一緒に写っている。カメラが切り取るシーンや構図にそれがあらわれて、インクジェットやシルクスクリーンのアウトプットを見る、私たちにまで届く。ティルマンスの「自分に見えている世界を、写真を見る人にも体験してもらいたい」という思いは、少なくとも私には届いてるし、同じように人やものに吸引力を感じつつ生きているみんなにも届いているから、これだけの人気があるのかもしれません。

トークはいたって真面目な話ばかりでした。でも作品はときどきばかでユーモラスなのです。それについては、「シニカリズムが嫌い。下品なことや、一般的でないことが好きだし、いろんなことを白眼視しないでいたいんだ。」という言葉にあらわれてますね。そう、やっぱりティルマンスはよく笑う人だったのでした。静かな日に、時間をかけて見にくるつもりです。(山田)

 



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