| 庄野潤三
(20040619sat)
本来的には梅雨のはずですが、からっとよい晴れが続いてますね。ここ2週間はちょっとブックワーム化していて、建築の構造の本、ミラン・クンデラ、村上春樹(2年ぶりに読み返し)、須賀敦子、町家的集合住宅に関する論文集…、と自分の本他人の本、家に在る本をざくざくざくざく読んでいるので、雨が降るから仕事行けないや、って晴耕雨読な感じに降りこめられたいので、残念です。でもまあ、実際のところ雨降る度にさぼってたら仕事にならないし、雨降っててもおもしろいことはおもしろいから、雨と読書はそれほど関係無いのかな。どうでしょう?
読んだ中の一つが庄野潤三「庭のつるばら」。妻と子供と孫と御近所と庭のある生活の老境についてメモの日記みたいに並べているエッセイです。ずっと前に友達が「庄野潤三をあなたにぜひ読んで貰いたい」と言ってくれたのですが、ものすごく気に入っちゃったらどうしよう、と手を伸ばせずにいたものです。自分を見抜かれているみたいで悔しいじゃないですか。映画で同様にオススメされて観てみたら、まんまと大好きになってしまって、その日に3回、そのときからこれまでに7回は観ているものがあります。登場人物もストーリーも衣装も小さなシーンでさえも、この世界に住みたい、いや、私の住んでる世界を見つけちゃった、みたいにはまって、めちゃくちゃ嬉しいけどちょっと悔しかったのでした。
庄野氏についてはちょっと意外で、というのはこれは、嬉しい、おいしい、美味、喜ぶ、よかった、という言葉が5行に1回は発されている、充実感と幸福感が文庫本から匂うようなエッセイだったからです。この文章は、妻、子供、孫、ご近所さん、友達、果ては庭の草花と庄野氏の間で、日々何かをあげたりもらったり、電話をかけたり手紙を書いたり会いに行ったり、その気持ちの交換の記録と言ってよくて、一方私は友達から来たメールに返信することも忘れちゃうような、忙しいような気になってて、なんだか本末転倒だよなあ、とやるせなくなってるような生活です。友達は、私の何を見てこの本を薦めてくれたんだろう?そう考えると不思議な気持ちになりますが、単純に、この本の素直な幸福感がとても嬉しかったです。
庄野氏がハーモニカをふき、奥さんが唄うエピソードに、「いつか誰もが花を愛し、うたをうたい」、という小沢健二のフレーズが浮かんで、オザケンの世界は小津安二郎の映画に似ている、という誰かの言葉を思い出しました。確かに小沢健二には時々、全体としてのハッピー感というか、彼の目にうつるごくミクロな映像からマクロの世界を肯定するみたいな、ある種老成した見方がありました(敢えて過去形)。小津映画のただ流れていく景色と小さい表情の変化、ひとが集合することで立ち上る幸福感と哀しいような気持ち、そういうものが、小沢健二独特の淡いけれど強い色の風景描写と共通するものがあるような。10分間の大作「天使たちのシーン」は彼の世界を閉じ込めたひとつの記録映画みたいなものですが、その最後のフレーズで彼はすべての歌を肯定している(と私は思う)のが、象徴的です。この曲のために集められた具体的な小さいシーンと個人的な気持ちが、なぜか神憑り的に普遍的に力強かったりして幸福だったり、もう何百回何千回聴いたかわからない十数年前の曲だけれど、今日この日の苛々でさえ肯定できるような、哀しくないのに泣きたい気持ちになるのです。
庄野氏と小沢健二の幸福感は種類の異なるものだけど、同じように世界を肯定することが、根本にあるのかもしれないです。肯定しながら満足しながら生活するって、主に仕事のことで日々アップダウンしてしまう私にはけっこう大変なことだなあ、と思いながらも、その方が自分にとって健康的だし、しばらくのテーマを「否定しない」にしようかな、と思ったのでした。(山田)
p.s. オリーヴに連載してた、小沢健二の「ドゥワッチャライク」って、いまどこかで読めませんか?高校生の王子様願望を抜きにしてもすごく素敵なエッセイだったと思います。
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