| 川内倫子(20040425sun) 川内倫子さんの展覧会に行ってきました。 川内倫子さんといえば、まあ、説明は不要というか、昨年あたりに木村伊兵衛賞も受賞した、もはや中堅どころの女性写真家さんで、雑誌をちょっと手にとるとあちらこちらで目にして、いまや引っ張りだこと言う感じの方です。 メインストリームにはちょっと斜にかまえたいじわるな見方をする悪癖がついてしまった私も、川内さんの写真は、どこで見ても気になるし(それはクレジットを見なくてもひと目でわかります)写真集を買おうかどうしようか迷っている作家さんなので気になり続けているのでした。 さて、今回の展覧会は、新しい写真集「AILA」の出版を記念して、出版元の所有するギャラリーでの展示でした。実は、これに行く以前に書店でその写真集を手にとってぱらぱらめくっていて、「ふーん、こんなかんじなのね」という感じはつかんでいた、つもりでした。そして「ああ、いつも見る感じね」なんて、生意気な感想で分かった振りをして、でも何かあるかんじがして(そして、このコラムのネタにいいかしらなんて不純な気持ちで青山のギャラリーの戸を開けて、写真集に載っていて、「ふーん」と思っていた、その写真達を生で見て、いろんなことを反省するくらい、立ちすくんでしまいました。 展覧会というのは、やっぱりナマモノです。本も大好きですけれど、展覧会は「モノ」と対峙しているかんじがする。もっと言えばそれは、作家が何を見せたいか、ということ、つまりコンセプトというようなもの。大量の写真達によって隠されていたものが、はっきりと形を持って、ぐいぐい迫ってくるのです。
今回のギャラリーの透明のパネル張りにされてた写真は丸ごと、根幹をついていると思いました。もう、気がつかされずにはいられませんでした。彼女は「生」を写真によって綴じ込めているのだということに。 自宅に、テレビデオにテープの不具合で飲み込まれったきり、もう出てこないビデオテープがあります。そこには、某日曜夜の番組で、川内さんの写真集の出版者の社長さんが特集されている、ドキュメンタリーが入っていました。番組構成は、その見た目にもかなりインパクトのある社長さんその人を追いつつ、彼が惚れ込んだ人物として描かれる川内倫子さんも多くの場面で登場していて、その番組がその社長さんを追っているのか、彼女を追っているのかわからないくらいで、そこで川内さんはほとんど言葉を発していなかったように記憶していますが、その変わりに社長さんはよくしゃべり、言葉の代わりに彼女が写真で撮るものを代弁していました。非常に編集者的な態度を取材される時も崩さない、戦略的な人だな、と見ながら思っていた記憶がありますが、彼の編集者としての腕云々よりも、彼が川内さんの写真を評して言った言葉がとても印象にのこっています。 彼の出版社には持込みが多いそうで、川内さんもまた持込みによって、彼に「発掘」された人物であるそうです。先ほどの番組内でも、社長さんの目利きによって育てられる人物として、彼女は描かれていました。その作品に惹かれる理由について、社長さんは「怖かった」と言っていたように記憶しています。「優しいんだけれど、その奥にすごく怖いものがある」とも。パンチパーマに関西弁のその人はとてもまっすぐな顔で、まっすぐな目をしてそう言っていました。私は、この番組を見てから、彼女の写真を見る度に、そして彼女の写真集のひとつにある帯、「死んでしまうということ」の意味を考えながら、その「怖さ」の理由を知りたいと思っていました。私が知りたかったのは、多分それでした。 それがわかりました。多分、丸ごとに。 会場には、生まれる命の瞬間を切り取った写真たちが並べられていました。そして、生まれる瞬間だけではなく、その途上にある生も、そしてその終わりも。神聖すぎて、言葉をつむぐことができなかったです。とても宗教的だと思いました。あんなにやわらかな写真達なのに、美しい光なのに、冷静すぎて、神々しすぎて、怖い。そう思いました。そして、この本質的な部分をずっとずっと前に、美た瞬間にわかって、しかも言葉にして先回りしていたあの社長さんはやっぱりすごいのだと思いました。 ちょっと話かわりますが、最近一番気になっているのは、「オンナ道」ということです。オンナドウ、と読んで下さい。オンナであることの意味をいろいろ再考しているのです。例えばそれは、固有名を出してしまえば、歌であれば、浜田真理子さんという歌手だったり、言葉で言えば、伊藤比呂美さん、夏石鈴子さん、矢川澄子さん、それから最近小説をお出しになった岡本敏子さんと言った面々に「オンナ」であることの希望ようなものをを感じています。 フェミニズム、という言葉はあまり好きになれません。女というもの対して生じてしまう、男性の影を常に感じてそこから自由になることを求めているみたいなので。でも、私が「オンナ」的なるものに惹かれるのは、もっと絶対的な自由であり、オンナであること、そのものの謳歌です。 彼女達の根底に流れているのは、静かな川です。生きていること。そしてその裏側にひっそりと、でもしっかりと息をしている死んでしまうということ。その光と影がくっきりと写りこんでいる。あるいは人を愛するということ。愛せないということ。命をつむぐ、ということ。そういう生の中を泳ぎながら生きている様を川内さん含め彼女たちには色濃く感じます。 生きていることは実は怖くて、奇跡みたいだと、彼女達の作品を見る度に思います。生きていることの怖さを見えてない振りをして、立ち止まれない人々に対して、「生」をつきつけてくる。個人的に。柔らかに。 ちょっと泣きそうになります。相反する感情のせいで。一つは神様に祈る敬虔な気持ちで。そしてもう一つは、祈る自分をちょっとバカにしたくなる気持ち。げらげら笑い飛ばしたい。生きていること、なんて言葉でお腹いっぱいになっちゃって。ちょっと恥ずかしいよ。あまりにも直球で。直球過ぎるものたちを上手に自分の中で消化して、奇妙にねじれたもので提出するのが表現だと思います。だから、この文は悪文です。恥ずかしいものね。でも時には恥ずかしがりたい。生きていることは怖いことでもあるけれど、恥ずかしいものでもあります。日々後悔。ちょっとそれはきっと後から見れば苦笑まじりに甘酸っぱい。
とりあえず、今日は酸っぱめで。でも、たまには、いいのではないでしょうか。きっとどこかにいるはずの名前もない神様に祈ることも、恥ずかしがることも、こうやって書くことも、私がここにいることなんですから。(Bonne)
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