| 小景異情(20040418sun) 今日は、散歩をしました。いい天気だったし。グッド散歩日和の日だったのですからね。自転車に乗って、ぜいぜい言いながら坂を登ってふらふらになったり、苦をすれば楽ありってなわけで、下りの坂道を勢いよくノーブレーキでつっぱしったり、平らな道をぼんやりこぎながら夕日にはっとしたり、牡丹みたいにぼてっとした身ぶりで咲く桜(あれって何て名の桜でしたっけね)の並木の下を通って、空を見上げたまま自転車を走らせたり。湯島を通って、骨董市があっていた上野公園をぬけて、浅草方面、それから荒川の土手の方まで。かれこれ通算で2時間以上は自転車に乗っていたようにおもえます。 途中で昔、といっても、ほんの一か月前に住んでいた家の近くを通りかかって、よく買い物していたおいしい釜焼きのパン屋さんでパンを買いました。よく買っていたたこ焼きパンと新顔のうずらの卵入りのあげパン、明日の朝用のふくふくした白い食パン。知っていた、パン屋の匂いと辺りの夕暮れ前の光のかんじとか風景のかんじとかなんだかすべてが完璧すぎて、明日の朝ご飯も決まったと言うのに、自転車でどこまでもつっぱしっていけそうなのに、シアワセなのに、微妙な感覚になりました。 賃貸の家のいい所は、私の後に誰かが部屋に住む、ということだと思います。私が暮らしていた場所に今、誰か知らない人があの間取りのなかで生活している。あの頃住んでいたのは、家具付きの家だったから、カーテンも、テレビも冷蔵庫もきっと一緒。私ではない誰かが、あのうんざりする長い階段を登って、ドアの前で鍵を取り出し、扉を開ける。そしたら窓からはきっと野球の少年たちの声が聞こえるでしょう。そんなことを想像しながら、家の近くの大きな道路をつっきりました。それから、その前に住んでいた家、その前の前に住んでいた家、それから、ずっと住んでいた家を順々に思いました。二つの家は、ハウスでした。もう、住所も電話番号も郵便番号もおぼろげにしか、覚えていません。どんな風景だったかもおぼろげです。目の前に高校があったな、とか、隅田川を自転車で通り抜けた記憶がぽつぽつとスポット状に思い浮かぶだけ。でも最後のひとつはホームです。そこにだけ、今も私の知っている人たちが私のいない場所で日々を重ねています。 「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」。ご存時の通り、金沢の生んだ文豪、室生犀星先生の有名な詩の一説です。日記の今回のタイトルもそこから戴いています。 ふるさとを離れて6年になりますけれど、遠くにはありますが、悲しくうたったことはまだありません。うたへる程まだ成熟していないのかもしれません。うまく、十八年間育ったあの風景を語ることがまだまだ青二才のアタクシには大きすぎる扉なのでそれについてはまたいつか、というわけなんですが、それでも郷愁、サウダージ(サウダーデ)、メランコリー、ノスタルジア・・・こういう言葉が持つ、もうここにないものを慈しむ気持ちというのは若干の甘酸っぱさと気恥ずかしさを伴いますが、嫌いになれない感情です。というか、人生にブルーがないと、やってられないと思っているから、ジャズの曲じゃないけど、ボーン・トゥー・ビー・ブルーが人生の信条の一つみたいです。そう、ふるさとをうたうかなしみとはほどよいビターなブルーでしかありえないでしょう。 今住んでいる家も住所は覚えましたが、電話番号と郵便番号をまだ覚えきれてなくて、住所を書く時にとまどったりして、ちょっと不審人物っぽくなったりしてしまいますが、これをさらさら書けるようになったとき、そしてここを離れることになったとき、私はこの場所を「かなしく」歌へるでしょうか。ブルーの感情。でもそれは全然悪くない。かなしい歌を明るい光の中でうたうこと。自転車に乗って。満開の桜の下で。風をきりながら。今日もまた、ちょっとだけ、ふるさとを思います。お元気ですかと。心の中で言ってみます。おとうさん、おかあさん、私は今日もブルーに元気ですよ。 室生犀星記念館■http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/saisei/
用語集トップ/あ/か/さ/た/な/は/ま/や/ら/わ |