| 奇跡(20040303wed)
さみーーーっす。いよいよ春かと浮かれていたのに、またまた寒い最近ですね。もう寒く寒くてやってられない!なーんて、うそです。実はへっちゃらです。なぜならば!つい先日まで東北にある実家に長く帰省していまして、寒さへの免疫力が今現在飛躍的に高まっているからです。秋田いいっすよー。散歩し放題です。実家では何もやることがなかったので、いつものごとく近所をテクテクってたのですが、なんとつぶれたはずの映画館が復活していてびっくり。なんでも、映画好きの会社員が、平日は会社で働きつつ週末だけ開館する、という方式で経営し始めたとか。すげー!で、フラッと入ってみると、たまげるほどおもしろい映画が上映されていました。カール・ドライヤーの「奇跡」ってやつです。 なにがたまげるってこの映画、異様に普通なのです。普段の僕の生活とぜんぜん違うはずなのに、見ていて何の違和感も持たねーのです。農場主(割と富豪)と舞台となる農村、そこでの宗教対立、長男の妻の恐ろしい毅然さ、最後の「奇跡」のきっかけとなるその娘(推定小2)のセクシーさ、神学の勉強のし過ぎで気が触れた次男の、なんともいえないおかしさ、牧師と医者の解消し得ない軋轢、などなど、どう考えても普段の生活とかけ離れた設定のはずなのに、なぜか異様にリアリティがあるのです。 そのリアリティが顕著となるのが長男の「表情」です。「顔とは、汲み尽くすことのない源だ。」と本人が言うように、ドライヤーにおいて顔は重要なモチーフであるようなのですが、長男の、妻が病気で苦しんでいる様子を見る表情、そして、結局助からずその死を他の家族に伝えるときの顔から、(それ自身しか写されていないにも関わらず、妻の苦しみや死に関して)異様なほどのリアリティが感じられるのです。 「表情とは、その欠如した項に、とりあえず代理として代入される表象であり、言い換えれば単なる外面でもなく内面性でもない、表象と表象の関係にある」(「信仰のアレゴリー」岡崎乾二郎)。フェルメールの絵画における「リアリティ」を論じた文章の中のこの一説は、「欠如した項」として「妻の苦しみと死」を当てはめれば、あらやだ、長男の「表情」がもたらす「リアリティ」をうまく説明してくれるように思えます。 ドライヤーの「表情」に対する態度は「奇跡」にさえリアリティを与えようとします。それまでの白く美しい映像(による前フリ)に反して、いともあっさり、当たり前のように「奇跡」が起こります。ここで初めて、(映画内の)「日常」と「奇跡」が、そして「映画」とそれを見る僕たちの「日常」が、それぞれ等価であることを自覚させられるのです。うひょー! 「人々にショックを与えてはならず、新たな道へとゆっくり導くべきである」。ドライヤーのこの言葉を反芻しながら、ただただ圧倒されながら、田舎の雪道を歩いて帰宅したのでした。(高島) 聖なる映画作家、カール・ドライヤー http://www.acejapan.or.jp/artg/filmg/fes/dreyer/
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