<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/'><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692</id><updated>2007-12-20T22:53:20.593+09:00</updated><title type='text'>たまった本を少しずつ</title><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default'/><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml'/><author><name>kawakami</name></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>16</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>25</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-7369250959159210479</id><published>2007-03-05T22:47:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T23:03:28.000+09:00</updated><title type='text'>『旅の時間』吉田健一</title><content type='html'>&lt;img src="http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/uploaded_images/070305.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;この頃はロンドンを飛行機で朝立つと翌日の晩には東京の町を歩いていられる。実際に飛行機が飛んでいる時間はロンドンを朝の何時に立って東京に翌日の何時に着いたということで計算しても地球が東京の方からロンドンに向って廻転していて一時間である筈のものが刻々に縮められて行くから解らないが要するに一日を飛行機の中で過すということはその一日の意味に多少の幅を持たせさえすれば言える。&lt;/em&gt;（p.5）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;冒頭の文章を抜いてみてもわかるように吉田健一の文章はとても読みにくい。なぜならそこに句読点が一つもないからである。試しに他にもう少し読みやすく書いているはずだろうということで、ユーモア・エッセイと題してある番長書房からの『酒・肴・酒』をパラパラとめくってみると、こちらには句読点が存在している。確かめるまでもなかったかもしれないが、やはり意図的に句読点を外している。ではなぜ句読点がないのだろうか。といって、すぐに答えのようなものが浮かんでくるはずもないので、読み進めていきながら、本書の大枠を説明してみよう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『旅の時間』とタイトルにあるように各章にも「飛行機の中」、「昔のパリ」、「大阪の夜」などと地名や交通手段の絡んだタイトルがついていて、谷村、村山、山田といった名前なんてきっとどうでもいいような匿名性のある中年の男性がとある街やとある移動中に過ごした時間そのままに切り取っている。登場する中年の男性たちは、別人として（名前が違うからというだけだが）出てくるが、一様に教養が深く知的で物思いにふけやすい人物であるようで、現実に起こっている出来事と彼らが考えている思考が交差しながら、そのプロセスがそのままに書き写されている。どの章も別の人物の別の場所での別の時間という設定だけれど、それはあくまで物理的な現象に頼った区別であって、そこに描かれている時間にはあまりにも親近感がある。読み進めるながら、興味深かったのは、なぜだか本書は椅子に座って読んだり、ベッドに横になって読むのは、どうしてもうまく読み進めず、朝の通勤や夜の帰宅時などの移動中に読み進んだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな中で、偶然、買い取らせていただいた友人の本の中の一冊にヒントがあった。それはある対談の途中で出てきたアポリネールについての話である。それによると、アポリネールに "Le pont Mirabeau" という詩があり、この詩を二度目に収録することになったとき、彼は句読点を全部とってしまったらしいのである。そして、アポリネールはやっぱりアポリネールであるから「真の句読点は生のリズムだ」なんて、格好のいいことを言っていて、つまるところ、句読点をうった瞬間にその言葉は止まってしまったデジタル的なものになってしまい、流れ出る息吹ではなくなってしまう、ということだったらしい。これを読んで、おそらく吉田健一がやろうとしていた意図も、同じようなところにあったのではないだろうかと思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『旅の時間』は旅行記でも日記でもなくて、そこで起こっている時間そのもので、吉田健一はその時間そのものを再生しようと試みていたのではないだろうか。実際にその時間を過ごしていたときは、そこに起こる出来事と自分の考えは分離不可能なはずで、後で整理して書き直すから、考えていることと起きたことを区別して考えることが出来るに過ぎない。しかも、どちらが本当かといえば、おそらく分離不可能な方が本当（リアリティがある）であって、この点はここでは突き詰めて哲学的問題を引き出してくるよりも感覚で判断した方がいいような気がする。そして、分離不可能にするためには、句読点を打ってしまってはダメで、句読点を打たないからこそ、現実の出来事と考えていることが絡まり合うことができる。なぜなら、句読点があったら、そこを境に現実の出来事とその場で考えていることが整理されてしまい、アポリネール言うところの息吹ではなくなってしまうからである。そう思って、よくよく読んでみると、文の流れも句読点を置かないことを考えて書かれていて、まさしくすがすがしい生のリズムを出そうとしているようである。本書が読みにくいのは、普段とは別の次元の書き方がされているからで、それを普段通りに読もうとするから読みにくさが生じるのであって、読み方もずらしてみれば解決されるのかもしれず、移動中にうまく読み進めることができたのは、そこに起因しているのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誤解してはならないのは、文章におけるリアリティの表現ということでは、方法は幾多あるはずで、必ずしも現実に起こったことをそのまま書き写すような方向性が良いということではない。言いたかったことはこのやり方が吉田健一であり、そこに彼のユニークな印象を生じさせている原因があるのではないか、ということである。そして、アポリネールの一瞬で切り裂くカウンターパンチのような切れ味はなくとも、じわじわとボディーブローのように渋みのある小品を積み重ねながら、同様の鋭さを魅せる吉田健一のダンディーさもやはり抜群に格好がいいのである。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2007/03/blog-post_05.html' title='『旅の時間』吉田健一'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=7369250959159210479' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/7369250959159210479'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/7369250959159210479'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-116588979386239374</id><published>2006-12-12T11:12:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T22:51:32.465+09:00</updated><title type='text'>『カスバの男』大竹伸朗</title><content type='html'>&lt;img src="http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/uploaded_images/061212.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;次から次へと新しい本が出るは、古本屋に足を運べば次から次へと古本も湧いて出る。そんな板挟みの幸せの前では、早くたくさんの本が読みたい！と渇望する気持ちが先行する。しかし、そんな中ですら、これは時間をかけて大事に読もう、と思わせる本に出会うことがある。『カスバの男』はそんな本の一冊だ。&lt;br /&gt;なぜ大事に読みたくなるのかというと、厳密には千差万別であるが、いくつかのパターンはある。例えば『カスバの男』だったら、朝早く電車に乗って仕事に向かう時のような憂鬱なひとときにでも、パッとページを開けば、ほんの数分の間で別世界へトリップできるような力がある。トリップに必要な覚醒作用がどこから発しているのか、その源を探るのは難しいながら、そこには著者が芸術家・大竹伸朗である由縁が大きく関わっているのだ、ということは随所に感じさせられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;フランス語しか話さぬタクシー・ドライバーは、ベルベル人の音楽が好みらしい。女のふるえる独特なボーカルが、この見たことのない夜の風景とあい、昔よく聞いた『MY LIFE IN THE BUSH OF GHOSTS』の空気が僕の頭をよぎる。&lt;br /&gt;街中に入り右手に大きな壁が続く。不定期に開いた穴が興味深い。&lt;/em&gt;（p.85）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;見たまま感じたままを切り取り、一節一節を下手に説明しようとはしない。言葉ではなく直感で納得できれば、それで良し。そんな感じである。日記的なスタイルと言ってしまえばそれまでのような気もするが、それだけでは説明しきれない何かがある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読み終わり、ページをめくると、角田光代さんが文章を寄せていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;この『カスバの男』ではじめて私は大竹伸朗という人を知った。無知な私は、この偉大な芸術家のことなど何も知らずこの本を手にとり、即座に引きこまれ、夢中で読み耽り、読み終えてすぐさま、モロッコ行きの航空券を買いに走った。&lt;/em&gt;（p.182、「解説」より）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なんと衝動的な行動！角田光代さんに対して何となく冷静なというか、少なくとも本を読んでそこに描かれた世界に突然行ってしまうなんて行動はとらないだろうと思っていただけに驚いた。たしかに解説を読むと、これは本当に行ったんだな、とわかるほど文章が生き生きしている。中でもハッとさせられたのは、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;本書を読んでいてじつに興味深かったのが、作者がなんにでも素直に驚くことだ。&lt;br /&gt;驚く、というのはじつにシンプルなことだが、だいたいにおいて大人は驚かない。大人にとって知らないことはすなわち恥だし、驚くことは知らなかったということを暴露する。&lt;/em&gt;（p.186、「解説」より）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;という一節。たしかにそうかもしれないな、と思うと同時に思考は飛躍して、文章表現の難しさは、「驚き」をいかに表現するかということに尽きるのではないか、という気さえした。小説を読んで、音楽を聴いて、映画を見て、もしくは旅に出て、これは驚いた！となって、そのことを伝えたいと切望する。しかし、驚きそのものを言葉にするのはあまりにも難しい。なぜなら、言葉にして理解することができたのだったらそもそも驚いてはいないはずである。驚きはいつだって少なからず「筆舌に尽くしがたいもの」なのだ。しかも「舌」ならば、目、口、手、足を使った縦横無尽のリアクションを織り込むことが出来るが、「筆」つまり言葉のみならば、文字の連なりに全てをゆだねざるをえない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本書には、大竹伸朗の驚きの世界がそこには広がっている。それは角田さんが指摘する通り「私たちの知らない世界」であり、モロッコと大竹伸朗が接触して起きた「驚き」という爆発そのものである。そして、その世界から出てくると、被験者である角田さんが言葉を駆使し絶妙な文章で、私たちをトリップ状態からゆるやかに日常の世界へと戻してくれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;モロッコの旅から四年たった今『カスバの男』を読み返してみても、私はやっぱりこの場所にいきたいと思う。今すぐチケットを買いにいきそうになる。けれどいかないのは、ここに描かれているのはモロッコでありながらモロッコではないと、私はすでに知っているからなんだと思う。大竹さんが描いたのは、私たちの知らない世界だ。そこへいくチケットはどこにも打っていない。この本を開くしか、そこへ足を踏み入れることはできないのだ。&lt;/em&gt;（p.190、「解説」より）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;古本屋としては、数年前の絶版時に手にしたのち、ぐずぐずしていたら文庫で復刊され発売されるという苦い経験をした一冊だが、名著の価値は稀少性ではないし、こういう本こそたくさんの人に読まれるべき。まさに文庫本葉書に入れたい一冊。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2006/12/blog-post.html' title='『カスバの男』大竹伸朗'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=116588979386239374' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/116588979386239374'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/116588979386239374'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-115883726508953804</id><published>2006-09-21T20:11:00.000+09:00</published><updated>2007-06-21T09:55:14.075+09:00</updated><title type='text'>『冥途・旅順入城式』内田百間</title><content type='html'>&lt;img src="http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/uploaded_images/060920.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;内田百間。「間」と表記したが、ほんとうは門構えに「日」でなく、「月」である。「月」の方は表示されなかったりするし、「けん」とひらがな書きするのも趣きに欠けるので、「日」で勘弁していただきたい。最近はパソコンで文章を書くことが多くなって、手書きで書くことなどほとんどない。キーボードを叩く方がスピードも速いし、字も正確で美しい。しかし、内田百間を表記するときに、ふとその不自由さに気がつく。キットラーの著書を紐解くまでもなく、タイプライターによって生まれた新しい文章というのもあるだろうが、その逆もしかりである。内田百間の文章は間違いなくタイプライター以前だからこそ生まれた文章だろう。仮にタイプライターが当時にあったとしても、百鬼園先生にその使用をすすめたところで断固断られるに相違ない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本書には、内田百間の第一創作集『冥途』と第二創作集『旅順入場式』が収められている。巻末の平山三郎氏の雑記によると、『冥途』は10年の年月を費やしたというが、その『冥途』の最初の版は、早稲田の稲門堂書店から出ていて、ページ数を示す数字（ノンブル）がなく、標題もないらしい。百鬼園先生いわく、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;……一生懸命書いたものを、読者が読んでくれて、おもしろくないからと云って途中でほかのものを読んだり、あっちこっちひろい読みされるのがイヤだから、それで何頁まで読んだという中途半端な読み方をされないように、ノンブルを全部取っちまったんだ。&lt;/em&gt;（p.328）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なんとも百鬼園先生らしい。結局、製本所が困ってしまって乱丁本がかなり出来てしまったので次からはやめたようだが、この逸話からもその文章にある魅力に似通ったものが感じられる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前に読んだ『贋作吾輩は猫である』などは、登場人物たちの生活する日々の様子が淡々と描かれる中に、何とも言えないおかしみがにじみでているといった印象だったが、本書の内容の多くは一言で言えば怪談である。つまり、例えば『贋作吾輩…』で描かれているのが日常とするならば、本書では化け狐が出てきたり、おそろしい病気にかかったり、豹に襲われそうになったりと、描かれる対象が非日常的であり、さらに言うと脅迫的である。だから、巻末の解説で高橋英夫氏は、それを評して「胸苦しさの文学」であると言い、その胸苦しさからは逃れたいという当たり前の気持ちと、その裏側にあるもう一度その苦しさを味わいたいという歪んだ欲求の両義性に百間文学の魅力がある、と解説されている。そして、そこから内なる夢物語として百間文学の恐ろしさを説いているのだ。しかしまた一方で、やはりここにも内田百間独特のおかしみといったものがどこかに漂っている気がならない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;すれ違う所迄来る内に私は考へた。探偵なら今ここでその事を話してもいいが、探偵だかどうだか解らない。此方から云ひ出して見て、探偵でなかったら危い。悪い奴だったら、私を殺して銭を取るかも知れない。まあ黙ってゐた方がよからうと思った。&lt;/em&gt;（p.41「流木」）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;私は驚いて、口の中に指を突込んで見たら、柔らかな湿れた毛が、口の内一面に生え伸びてゐた。そうして、まだ段々伸びて来さうだった。もっと長くなれば、仕舞には脣の外にのぞくかも知れない。女が帰って来て、私に接吻しに来たらどうしようかと思った。&lt;/em&gt;（p.270「流渦」）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読み返して、どこにおかしみがあるのだろうかと考えてみると、それは呑気さというかマイペースというか、どんなことが起こってもどこか心の底では落ち着き払って動じていないような雰囲気が漂うところにあるようである。そして、その動じず、落ち着き払っている者というのは、それぞれの話に出てくる当人であり、主人公であり、つまりそれが誰なのかと言えば、内田百間その人である。話の中では、ちゃんと、「びっくりした」り、「ひやり」としたりしているのだが、どうも驚き方や焦り方そのものに余裕が混じる。百歩譲ってそこで起きた出来事に動揺しているとしても、どこか一拍遅れているような感があり、それこそが燻るようにおかしい。例えるなら、機械化された工場のシステムに挑むチャップリンのようでもあるが、チャップリンと違って、百鬼園先生は至って真面目である。笑われる気は毛頭ないのだ、だからこそチャップリンとも決定的に違う。厳密にそのおかしみの根拠が文体にあるのか文章のリズムにあるのかどうかは明らかではないが、あえてそれを言葉にするならば、「百間節」とでも言うしかない。そう、内田百間の人格が話の主軸でどっかりと座布団に座り、あまりにマイペースな反応を示している様子こそが、内田百間のユニークで最も感心させられるところなのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;恐れながらも、百間文学は勢いよく一度に読み終えてしまうような迫力はない。だが、じんわりと伝わるような味があって、ゆっくりと読んだり、ひろい読みしたりするだけでも伝わるほど浸透力が強い。なので、未読の方にも、ぜひふらりと立ち寄ってもらいたい作家である。そして一度立ち寄ったら最後、またふと立ち寄りたくなり、気づいたら常連客になってしまうだろう。本書、旺文社文庫版はやっぱり解説がしっかりしていて勉強になる。本書はカバーがくたびれてしまっているが、売るならば800円はつけたい。もちろん、復刊もかなり増えているので、そちらもぜひ確認してもらいたい。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2006/09/blog-post.html' title='『冥途・旅順入城式』内田百間'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=115883726508953804' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/115883726508953804'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/115883726508953804'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-114968845178779048</id><published>2006-06-07T22:53:00.000+09:00</published><updated>2007-03-05T22:53:49.631+09:00</updated><title type='text'>『中国製造』島尾伸三・潮田登久子</title><content type='html'>&lt;img src="http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/uploaded_images/KH02178.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;変な置物を探そうと思ってみれば、意外といろんなところにあるものです。ふと入ったラーメン屋に飾られたばかでかい皿、目の前を通り過ぎていった車のリアウィンドウ越しに傾く微妙な表情のぬいぐるみ、はたまた、小さい頃に遊びにいった友達の家の玄関にありながら、なぜあるのか意図がわからない不気味な人形。これらのものは私たちの生活での間隙を埋めつつも、しかし一対一で対峙することは滅多にないシロモノです。何かおかしい、デザインが良くない、、、どころでなく絶対にくれると言われてもいらないものから、何処か惹かれてしまう、、、そもそもあれは何なんだろう？と悩まされながらも、わざわざ聞くほどでもないと済ませてしまうもの。そもそも置物というものは、どこかの遠い世界で見初められはるばる連れて来られたのだから、変わって見えるに決まっているのですが、だからこそ立ち止まって考えてみればとても豊かな世界がそこには広がっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;島尾さんと潮田さん夫婦は、そんな世界の住人たちを丁寧に一人ずつ集めてきたのです。しかも島尾さんが集めてきたのは、特にその生態が怪しいと思われ、また一方で濃密な魅力を振りまいている、その世界の極北とさえ行っても過言ではない中華世界の住人たちなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本書は、『中華図案見学』や『香港市民生活見聞』などでも地道に集めていた「玩具、茶器、食器、人形、ままごと」などのモノを一挙に写真で紹介。水戸芸術館での展覧会「まほちゃんち」で展示され、それを念頭に置いていたこともあるだろうが、ささやかなインデックスとタイトル以外、一つ一つのモノの写真が載っているだけである。しかし、だからこそ存在感が浮き出ていて、解釈不可能な言葉であるがモノが不気味に語りかけてくる（ような気になる）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中から、お気に入りをいくつか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;img src="http://www.super-jp.com/bookpick/pubooks/uploaded_images/KH02178_b.jpg"&gt;&lt;br /&gt;題して、「お風呂大好き」。体は子供のくせにどこかませた表情と、ネックレス。態度もまさしく大将肌で、その柔らかな肌を隠そうともしていません。1980年代以前の玩具。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;img src="http://www.super-jp.com/bookpick/pubooks/uploaded_images/KH02178_a.jpg"&gt;&lt;br /&gt;「ハーモニカ」。タツノオトシゴの形をしたハーモニカのようです。写真右側に口があるようですが、置物なのか、楽器なのか中途半端さ加減がらしいです。これも1980年代以前の玩具。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;img src="http://www.super-jp.com/bookpick/pubooks/uploaded_images/KH02178_c.jpg"&gt;&lt;br /&gt;「両端に顔がついている双頭の薬まくら」。。。ま、まくら！これは寝れません。顔が怖すぎます。薬まくらは体にいいようですが、このビジュアルでは夢に出てきそうです。かなりのコアな人が愛用していたのでしょう。1980年代以前の実用品。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;中のキャプションにならって、一言つけましたが、もう上の写真を見てもらえば言葉は必要ありません、モノたちがあまりに豊富に語ってくれていますから。本書は新刊でも発売されていますが、状態は全くの新刊なので、少しお安くして1400円くらいでしょう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2006/06/blog-post.html' title='『中国製造』島尾伸三・潮田登久子'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=114968845178779048' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/114968845178779048'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/114968845178779048'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-114732239746756392</id><published>2006-05-11T13:37:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:53:20.616+09:00</updated><title type='text'>『表現の風景』富岡多恵子</title><content type='html'>&lt;&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/KH02168.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩人であり、小説家であり、美術評論家でもあった富岡多恵子。写真で見る姿も印象的で、一つの時代の象徴的な女性といった感がある。本書『表現の風景』は、雑誌『群像』に連載されていた文章をまとめたもので、その取り扱う題材は多岐にわたっている。元西ドイツの脳外科医で、人形制作者のS氏、過去の日記を素材とした小説『緑の年の日記』、共産党幹部のハウスキーパーだった女性たち、伊丹十三の映画『お葬式』、中原淳一編集の『ひまわり』など。どれもエッセイというには少し読みにくい印象もある一方で、作者が生身の感覚で気にかかったことを文章化しているということが強く伝わる文章になっている。読みにくいとはいっても、それは最近の文章の中で、というに過ぎず、最近のエッセイと呼ばれる文章は逆に読みやすさを重視しすぎではと思うことが多い。たとえば「エッセイ」でなく、「随筆」と言葉を換えれば、最近のものは軽すぎる気もしてくる。読みやすさのために削られてしまう何かが「エッセイ」と「随筆」の狭間にはある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;元西ドイツの脳外科医で、人形を作るようになったS氏の話は、「呪術と複製」というタイトルで次のように始まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;「人形の嫁入り」という写真とインタビュー記事が、「写真時代」という雑誌に出ていた。写真の「人形」というのはダッチワイフであり、インタビュー記事は、「人形」制作者S氏の談話からまとめられていた。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;（p.7）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;題材自体も辛い話ながら興味深い内容だったので、どういう話か説明すると、S氏が脳外科の医者として働いていたとき、彼を訪ねてきた脳性マヒ患者の母親が、話をした直後９階から投身自殺をし、その現場を見てしまった。そんなことが続けざまに起こった。母親が話しに来たその告白の内容とは、患者である自分の息子に体を与えたということである。こういった病気にまつわる性の話というのは、人から聞いたことはあっても、もちろんその場ですぐになど明解な返答をできるはずはないし、自分の中ですらなかなか答えが出ず、話相手ばかりか自分をも誤魔化すしかないが、S氏はそれを目の当たりにし、立ち上がったのである。もしくは立ち上がるしかなかったのだろう。ただS氏の動機はどうあれ、その行動は幾多の誤解にもあったし、彼が望んだ通りの使われ方を必ずしもしなかったりしたが、その困難の中をくぐり抜け、S氏はある程度の納得が得られた「人形」たちを完成させた。S氏は「娘」たちと呼び、その人形たちは「必要と思われる方」を選別をした上で、限られた人に嫁がされていく、という話である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この話をきっかけにして、富岡多恵子はコトバの方向に向かっていく。まず、「人形の出生」であるところのヒトガタの条件にこの「娘たちは不思議なほどぴったりあてはまる」と指摘し、この条件として、まず第一に形の点、そして第二にS氏の「人形」たちは、「娘」たちと呼ばれるように、S氏にとっては「霊魂の容器」として作られている点をあげている。しかし、ここでの「人形」たちはたとえば「娘」という言葉たちによっていくら演出されていても、精巧に作られた性器、つまり「実用」的な要素に根底を支えられていて、これがなければ呪術としての役割を果たさないと言う。確かにこの場合は、コトバだけでは「人形」を「必要」としている人を救うことはできない。それは、事実だ。しかしこれに対し、コトバそれだけでこの「人形」に対抗できるものがあるのだろうか、「モノ」を必要とせず、「コトバ」だけでS氏の「人形」に対抗できるほどの呪術となるもの、これこそ彼女が本当に求め、提起したい問題なのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;はじめにいったように語られる題材は様々だが、そこで本当に語られていること、もしくは富岡多恵子が語りたいことは、「コトバ」について、ということに尽きる。たとえば、紹介した「人形」制作者S氏の話もそれ自体の出来事だけで、読者に何かを考えさせる話であるし、もし彼女でなければ、全く別の方向へ話をつなげて魅力的な結論を導いたかもしれないことが容易に想像できる。全体にわたって、富岡多恵子は語りたいことを語り、だからこそ悪くいえば、題材を自分のためにうまく利用しているとさえ言える。例えば「対話と独裁と」と題された「対談」についての文章は、富岡多恵子自身の対談に対する読者からの批判をきっかけに文章が始まり、その読者の批判が的をえていないことを指摘する方向に導かれていく。それはある種の弁解であるともとれる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だからこそ、彼女の文章はあくの強さを感じたり、読みにくかったりもする。概して富岡多恵子はあくまで自分のために自分から発したことしか書いていない。しかし、ものを書くという行為に際して、これ以上に強い何かを語る動機はなく、自分のために書くからこそ表現の意味がある。ただの読みやすい情報であるならば、少なくとも筆者の名を書に記す必要はない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;冒頭で感覚的にエッセイと随筆の狭間にあると言ってしまった違いであり、最近の文章にはないと感じる富岡多恵子の文章の違和感は、おそらくこういった書き手の態度の問題である。この問題はおそろしく初歩的で単純なことでありながら、たとえば広告のように自分以外の何かのために書くという行為の中では、うっかり忘れ去られてしまいがちである。当たり前のことだからこそ、忘れがちで邪険に扱われやすく、この問題を気づかせてくれる文章は少ない。最近は特にその傾向がある気もする。富岡多恵子の本はがんばって探せば見つかるが、本書を含め絶版も多く、本書は状態は普通の古本程度なので、1000円くらいだろう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2006/05/blog-post.html' title='『表現の風景』富岡多恵子'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=114732239746756392' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/114732239746756392'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/114732239746756392'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-114267533761517621</id><published>2006-03-18T18:47:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:52:18.427+09:00</updated><title type='text'>『幻想博物館』中井英夫</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/KH02150.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;２年ほど前、世田谷文学館での「寺山修司の青春時代」展。寺山から中井英夫に向けた手紙が展示されていた。若き寺山修司の才能を見いだしたのが、中井英夫であることは有名だが、その手紙には寺山にとっての中井への信頼が見られて興味深かった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本書『幻想博物館』は、中井英夫による短編の代表作『とらんぷ譚』の始めの書にあたり、13の短編からなっている。『とらんぷ譚』とは、作品群をトランプに見立ててあり、エース（1）からキング（13）までの短編が集められた４冊の本で完結している。これはなかなかうならされる構成である。『幻想博物館』はそのスペエドにあたり、他３冊を参考までにあげると、クローバ『悪夢の骨牌』、ハート『人外境通信』、ダイヤ『真珠母の匣』となっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;元々さる大学の精神科主任教授だった院長が建てた病院、「流薔園」。ここはただの病院ではない。一般的な病院が患者を治し、社会へ送り返すために作られるのなら、ここは患者である幻視者の夢を蒐集し、幻想博物館として完備するために造られたのだ、と説明が続く。そして物語はここに集まってきている幻視者の夢を中心に展開していくのだ。それぞれの短編は簡潔にまとまっていて文章量も多くはないが、何度も繰り返し読んで愛でたくなるような豊富さがある。なので、毎夜一章ずつゆっくりと読んでいくことになるのだが、読み進んでいくと、それぞれの章のつながりが少しずつ見えてくるように仕掛けられている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんなふうに書いていると、よくできたミステリーの域を出ないように見えてしまうが、実際この本を読んでみて、今まで味わったことがないような感覚がつきまとっているから驚いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この感覚はどこから来ているのだろうか？怪奇や幻想の世界を描く作家の多くは、何らかの方法である種の病的な感覚を持ち、それによって、魑魅魍魎が渦巻く怪しい世界にアプローチしていることが多く思える。何らかの方法とは、育った環境であったり、薬物投与によったり様々だろう。しかし、中井英夫の場合はきわめて冷静な判断を維持したまま怪しい世界へ入っていく印象がある。そこでは逆に意識が研ぎすまされているようでさえあり、そのことがさらに恐ろしさを感じさせる。とはいっても、冷静な判断を元に怪しい世界を描かれた作品も数多くある。それは、まことしやかな書物や事件記録などを引き出すことによって、そこに描かれる内容の真実らしさを証明していくというエッセイ的な趣きが出るものだ。だが、中井英夫はそれとも違い、あくまで虚構として、言葉という魔力のみで怪しさの漂う世界を構築していく。彼の描く世界にとても真実味があるという点ではリアルであるが、また一方でその世界は現実ではないということも明らかに感じる。前述したエッセイ的な趣きが出るような作品においては、いかに恐ろしく怪奇的で目もくらむほどに幻想的であったとしても、現実の世界の延長としてしかその世界はありえないのに対し、中井英夫の描く世界は現実の世界と決定的に断絶して描かれていて、だからこそ前者よりも高みに位置し、まろやかな豊かさと優雅な雰囲気を持ち得ているように思える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本書は、第二版の初版。装幀・挿画は建石修志氏による豪華なものになっていて、状態は悪くない。中井英夫の本は版によってとても高価なものもあり、人によってはコレクションしている方もいるようだが、どの版でもその文章の気品は変わらないので、見つけたら一読をおすすめしたい。新刊だと『虚無への供物』を始めとする数冊以外は、全集でしか購入不可のようなので、少しずつ古本でも見つけて、紹介していきたい作家である。2000円くらいだろうか。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2006/03/blog-post.html' title='『幻想博物館』中井英夫'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=114267533761517621' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/114267533761517621'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/114267533761517621'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113789589374324495</id><published>2006-01-22T10:57:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:51:32.871+09:00</updated><title type='text'>『競売ナンバー49の叫び』トマス・ピンチョン　志村正雄 訳</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/KH02103.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;難解という前評判ばかり気にして、途中で挫折することも覚悟の上、読み出した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;ある夏の日の午後、エディパ・マース夫人はタッパーウェア製品宣伝のためのホーム・パーティから帰って来たが、そのパーティのホステスがいささかフォンデュ料理にキルシュ酒を入れすぎたのではなかったかと思われた。家に帰ってみると自分 ー エディパ ー が、カリフォルニア州不動産業界の大立物ビアス・インヴェラリティという男の遺言執行人に指名されたという通知が来ていた。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;（p.7）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;妙に構えてしまっているからか、固有名詞に敏感になる。見逃したらすぐにおいていかれるかも知れない…。小説ではあまりないが、ボーっと読んでいたためにだんだんと内容がわからなくなり字面を追って半分くらいまで読み進んだものの、諦めて初めから読み直すことも多々ある。この場合はあきらめる勇気が大切だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、読み出したらあれよあれよと止まらず、時間を忘れ一気に読み終えてしまった。一気に読んでしまうというのはやはり面白いからだろうけれど、こういう楽しみばかりが本や小説の目的ではないから、全幅の信頼をおいて評価の基準にしてしまうのはよくない。ただ、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』にとらわれた印象は、なにか今までにない印象があった。文字の１文字１文字に吸い付けられるというか、まさしく目が離せないといった状況で読み進めてしまった。作中のキーポイントとして出てくるため口絵が載っている、レメディオス・バロ『大地のマントを織りつむぐ』にあるように、まさしく自分がテキストの織り目に取り込まれていくようだ。あまり深読みすることは好まないが、解注を読むと、主人公エディパ・マースとともに「遺言の共同執行人」であるメツガー在する「＜ウォーブ・ウィストフル・キュービチェック・アンド・マクミンガス法律事務所＞」の「ウォーブ」は「日本語の化学用語「ワープ」の原語warp（歪み）と同音であり、その単語はまた織物の経糸をも意味する。エディパの姓マースはオランダ語のMaaswerkにもつながっていて、それは「緯糸」を意味するから、エディパと、この法律事務所が結びついてこの本のテクストが織り出されて行くことの暗示でもある。」なんてあるから、「テクスト」と「世界」を「織物」のイメージでつないだロラン・バルトを思い出したりしてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「織物」のイメージで話を進め、完成された生地を世界と見るなら、この作品に感じた独特の印象は、少し離れた位置から生地全体を見てとらえた感覚ではなくて、生地のなかの一つ一つの織り目を目で追っていきながらとらえたような感覚にある。だからこそ、そこにある単語（織り目）に謎を含んだ興味が残り、その意味を追いたくなる気持ちが湧いてしまう。しかし、一つの単語の意味は他の単語と同じくその世界観の重要な位置を占めていると同時に他の単語と同じく重要でない。なぜなら、どれも単独では意味をなさず、関係性においてしか意味を持たないのだから。まさしく「織物」なわけである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただ謎めいている、それだけに終わる作品が多い中で、全体が靄に包まれながらも、読み手を惹きつける魔力を有しているのには驚く。それは「解注」というどうしても補足的でナンセンスにならざるをえないものさえ、読んでみると物語の続きであるようにすら思えてしまうことにも通じるだろう。それはおそらく、著者という唯一、全体像を明解にとらえている視点から、「織物」がとても丁寧に織り込まれているからではないかと想像させる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ピンチョン作品では、『競売ナンバー49の叫び』は中編で、『スローラーナー』といった短編集などあるけれど、この作品を読むと、長編『V.』や『重力の虹』へのチャレンジ精神も湧いてくる。付録の初期短編『殺すも生かすもウィーンでは』も良かったから、短編も悪くなさそうだ。志村正雄氏のあとがきを読むと、サンリオ文庫版はもともと寺山修司訳の予定だったらしいが、寺山の死によりその下訳をもとに志村氏が訳したらしい。もちろん＜サンリオ文庫＞は絶版になっているので、一時は値段が高騰し入手困難だったが、今回読んだ新版が出て今は新刊でも2835円で入手可能。装幀もカバーの内側まで凝っている。状態も悪くない上に、読み返したくなる作品なので2000円くらいはつけたい。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2006/01/49.html' title='『競売ナンバー49の叫び』トマス・ピンチョン　志村正雄 訳'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113789589374324495' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113789589374324495'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113789589374324495'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113551982066863021</id><published>2005-12-25T23:03:00.001+09:00</published><updated>2007-12-20T22:50:42.189+09:00</updated><title type='text'>『山椒魚戦争』カレル・チャペック　樹下節 訳</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02083.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『園芸家12ヵ月』もしくは、『子犬の生活ダーシェニカ』という本を知っていたのもあるけれど、この本に惹きつけられたのはなんと言ってもそのタイトル。『宇宙戦争』なんかより、謎めいていてずっといい。なんたって「山椒魚」だ。「園芸家」、「子犬」ときて、「山椒魚」と考えるならギリギリわからなくないが、続いて「戦争」とある。背表紙の「SF」マークや古い角川文庫にたまにあるタイトル文字のボールドっぷりにも期待をかけて読んでみることにした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;序盤のあらすじはこうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あらゆる航海を経験してきたヨット・ヴァン・トッホ船長。彼は真珠の入った貝を探して、誰も近寄らない「デヴル・ベイ（魔の入江）」に足を踏み入れる。するとそこには噂通り、海の魔物が無数にいたのである。海面からのぞく、無数の黒い頭。その海の魔物の正体こそ、今回の真の主人公たる山椒魚である。しかし、ここで山椒魚たちが大群をなして襲ってくるわけではない。彼らは、頭が良く、ひょうきんで人なつこい。貝の中身が食べたくて、真珠入りの貝を海の底から採り、サメを天敵とする人跡未踏の地に息づくささやかな存在である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;山椒魚は出てきた。登場からうじゃうじゃと。「戦争」という言葉から世にもおそろしい狂気的な山椒魚を想像していたら、人なつこいときている。ここでは、全く「戦争」など起こりそうにない。物語もここまではありきたりな印象で、特筆すべきところはない。しかし、序盤を過ぎたあたりから、今までは油断を誘うためのジャブに過ぎなかったことに気付いてくる。たった一つの小さいようで大きな発見。文明化された人間による山椒魚の発見から物語は展開していく。この本の面白さは、中盤以降、山椒魚の全貌がだんだんと明らかにされていき、人間の前に現れてくるようになる変化の様相と、その描き方にあるのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一部の最後には「（付記）山椒魚の性生活について」なる論文めいた文章が書かれている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところでこの本の作者は、われわれの住む地球の未来に一べつを与えるにあたって、いちいち実例をあげながら、山椒魚の未来の世界で、性生活がいかなる様相を示すかについても見解を述べたいと思うのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そこには「エイチ・ボルター」なる人物の見解、それに対する「ブランシ・キステンマッケル嬢」、「有名なチャールズ・ジェー・パウエル」などまことしやかな研究者の名前とその見解が出てくる。それは細にいりしっかり書かれていて、少なくとも普段から学術論文に親しんでいない身には、まるで本当の論文が掲載されているかのように感じる。もちろん、そんな山椒魚などいないわけだが…。そして第二部に入ると、物語はある人物が集めた山椒魚に関する記事を次々と覗いていく形で展開されていく。ここでも、紹介される記事の細部にわたる書きっぷりは特筆すべきで、そのディティールの在り方は物語をつむぐ文章というよりも、一つの世界の歴史を描き出そうとするかのような印象がある。文章が単なる物語として消化できる閾を出て、シミュレーションとして成立ほどの現実味を持ちうると、一つの歴史が認識され「世界」が立ち上がってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;一読すると、現実味に溢れているのは確かながら、物語の中で綴られる事件にはどこかで聞いたような既視感は拭えないなと感じる。しかし、よくよく考えてみれば『山椒魚戦争』が書かれたのは1936年。2005年も終わりに近づいた現在にそれを読んで、既視感を感じるということは、もし36年以降の出来事に対して既視感を感じているのだとしたら、それは彼のシミュレーションを現実がなぞったということだ。一例をあげると、「Xは警告する」という章がある。「X」は、英語におけるキリストの略字であることを考えれば、そんな偶然はいくらでもあるかもしれないが、ここで登場する「X」の語りの過激さ、ある勢力の中で「一番筋金入り」で「大きな反響」を呼び起こしたという点に、やはり「マルコムX」の姿を思い浮かべざるをえない。ちなみに、マルコムXが「X」の性をネイション・オブ・イスラムから授かったのは、チャペック没後14年目の1952年である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シオドア・スタージョンの『ヴィーナス・プラスX』を読んだときにも感じた、しっかりとした思想に基づいた上での妥協しない緻密な描写が、単なるエンターテイメント性を遙かに超え、凡百の作品の中で一段レベルの違う位置まで作品を昇華させている。他にもこんな力業を感じるSF作品を読みたいと思わされる。本書は角川文庫だけでなく、創元推理、岩波文庫、小学館からハードカバーでも出ているらしい。他は手にしていないが、本書に関して言えば、表紙がださい上に、さしえも期待を裏切らずださいから心をくすぐられてしまう。最近ではなかなか出てこない感じである。状態はそこまでよくなくC程度だが、700円くらいはつけたい。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/12/blog-post_113551982066863021.html' title='『山椒魚戦争』カレル・チャペック　樹下節 訳'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113551982066863021' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113551982066863021'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113551982066863021'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113340638604977690</id><published>2005-12-01T12:03:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:50:04.123+09:00</updated><title type='text'>『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン　藤本和子 訳</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02082.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;表紙の写真がいい。はじめに、表紙について語られるが、それは裏に映るベンジャミン・フランクリンの銅像について。やっぱり手前の男性と女性の印象こそ強い。女性はきれいに服を着ているスレンダーな女性だが、出っ歯なのが見え、幸が薄そうでどこか滑稽だ。男性の方はいかにもアメリカが一番だというような立ちっぶりに頑固そうな表情をしている。服装も含めて、扱いづらさを感じる。友達になるのは至難の技だろう。映画俳優なら、キレてショットガンをぶっぱなす配役が似合う。「グライダー・クリーク プロローグ」で鼠に三八口径の連発ピストルを打ち込む男もきっとこんな感じだろう。と思っていたら、これがブローティガンなのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近、彼の遺稿の邦訳が出版されたり、クルーの松尾さんがその関連だろうと思われるトークショーに「行ってきまーす。」と言っていたり、ボンヌが日記的用語集をブローティガンで書いていたりして（近日公開予定）、その矢先に、古本屋でこの本を見つけた。新刊が出ているにしろ、表紙がいい上に、犀のマークも一押しをして、読んでみる気になった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ブローティガンというと、「ビートニク」という言葉を思い浮かべてしまうけれど、反逆的な姿勢はあまり感じない。あとがきに、「ビートニクの時代には、どうしていましたか？」という質問に対して、「…ぼくはその運動には参加しなかった。連中のことは、人間として、好きになれなかった」とある。そもそも「ビートニク」という言葉の印象が曖昧だから困る。タイトルに「釣り」とあるのだから、呑気なレジャー気分は終始漂っている。ちなみに、「鱒」は辞書で調べると、分類上はサクラマスのことなのだが、東京では、カラフトマスをマスと俗称し、サクラマスはホンマスと呼ぶなど、名称は混乱しているらしい。ブローティガンの足の向かう先はクリークであるから、ここではおそらくヤマメのことを指しているのだろう、そして鱒釣りとは、渓流釣りなのだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;描かれる内容は、特定の場所にはりついているから固有名詞が多く、その上幻想的でもあるから、集中しないと字面だけを追うはめになりやすい文章である。しかし、独特の雰囲気はたっぷりあって、たまに食べたくなる味、もしくは、ふらっと温泉につかりに行くような気分でまた読みたくなりそうな感じがある。特に些細な対象への接し方なんかがいい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;掘立小屋からちょっとのぼったところに屋外便所があった。扉がもぎとられそうな感じで開いていた。便所の内部が人間の顔のように露わになっていた。便所はこういってるようだったー「おれを建ててくれたやつはここで九千七百四十五回糞をしたが、もう死んでしまった。おれとしては、いまはもうだれにも使ってほしくないよ。いいやつだったぜ。随分と気を使って、おれを建ててくれたんだ。おれはいまは亡きおケツの記念碑さ。この便所には匿さなくちゃならんような秘密などないよ。だからこそ扉があいてるんじゃないか。糞をしたけりゃ、鹿みたいに、そこいらの茂みでやってくれよな」&lt;br /&gt;「くたばりやがれ」と、わたしは便所にいってやった。「おれは川下まで車に乗せてって貰いたいだけなんだぜ」&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;（p.20-21）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これは対象が便所であることも相まってまとまりすぎている感があるが、こういった主観的に立ち上がる距離感、ゆるやかな温度に魅力がある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;藤本和子さんのあとがきもブローティガン風の前半に続き、作品解釈の後半があって詳しい。「かれの作品をいくつか読むのなら、『アメリカの鱒釣り』から始めるのがいいと思う。また、もし、ブローティガンの作品はひとつだけしか読まないというのなら、『アメリカの鱒釣り』がいいと思う。」なんてことも書かれている。偶然だけど、始めに読んで正解だったようだ。「はじめに読むべきでは決してない。」なんて書かれてたら、気分が悪かったろうからよかった。そういえば、後書きに関することで、上下巻ある作品なのに、上巻のあとがきで結末を語るようなものは「本当にふざけやがって！」、という気になる。名作だからって、こんなことはしてほしくない。こんなあとがきを書く人に限って、たいてい文章も傲慢でよくないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1976年の7刷だが、状態は悪くない。新刊が1680円だから、700円くらいでどうだろう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/12/blog-post.html' title='『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン　藤本和子 訳'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113340638604977690' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113340638604977690'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113340638604977690'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113258448046281256</id><published>2005-11-21T23:17:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:49:28.442+09:00</updated><title type='text'>『闘魂　拳ひとすじの人生』　大山倍達</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02081.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「一撃」を背に、カウンターで名だたる強豪をまさに一発のパンチでマットに沈めるフランシスコ・フィリオの姿はまだ記憶に残り、近年のクラウベ・フェイトーザの成長には目を見張るものがある。彼らを育てた「極真カラテ」、その創始者こそが大山倍達その人である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大山倍達の名は知っていたが、彼自身の話はあまりにも伝説的すぎて、真偽のほどはあやしいと思っていた。本書ではその内容が、本人の口から詳しく語られている。目次を開いてみると、すでに興味を引かずにはいないタイトルが並ぶ。「全裸パーティーの美女たち」、「アメリカ牛に必殺の二段打ち」、「大至急"空手マン"を送れ」。推薦文を梶原一騎が書いているが、大山倍達は『空手バカ一代』というマンガにもなったほどなので、タイトルの奇抜さもそんなとこから来ているのかもしれない、とも思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、読み始めてみると空手バカというには、文章はしっかりしているし、好感も持てる。体重130キロ、身長201センチの全米一のレスラーを体重78キロ、身長175センチの大山が脇腹への中段突き２発で倒す、と書いてしまうと真実味がない。だが、そこで彼は「顔がひきつっているのではないか」と思うほど恐怖を感じたと正直に語り、倒した後の感想を次のように話している。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;人が人を傷つけるのは、力の違いというよりは、相手に対する恐怖心からである場合が多い。"窮鼠猫を齧む"というとおり、…恐怖心のとりこになって、一瞬、相手の受けるダメージのことを忘れてパンチを叩き込んだことが、いまもなお恐ろしくさえ思うのである。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;（p.36）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この試合の後、デンプシーロールでも有名なボクシング元世界ヘビー級チャンピオンのジャック・デンプシーが息子を弟子にしてくれと訪ねてくるのだ。しかも、007のショーン・コネリーも門下生だ。偉大さの避けられぬ由縁か、どこか武勇伝じみてしまうのは確かだが、読めば納得させられるところが大きい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、アメリカのある街でその街の英雄を倒したばかりに、街の人々がみんなで命を狙ってきた話や、白人との戦いに勝った後の有色人種の人々の感激など、日本人が自分を白人の立場と混同してしまいがちな今日には、目の覚める思いのする黄色人種の立場からの体験談である。序文で、「私が、ほんとうの意味で戦いたかったのは、全米一の強豪レスラーでもなく、四〇〇キロの猛牛でもない」、アメリカで感じた「現代文明が生み出した悪を、この手でたたきのめしたかったのだ。」と強く言っているのが印象に残るが、その理由もよくわかる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;背表紙の上に少しやぶれがあるが、状態は悪くない。たまに挿入される写真も目を疑うものが多い。メンバーの風当たりが強い中、ひそかに格闘技の棚も用意しようと企む意気込みをこめて1200円くらいにしよう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/11/blog-post_21.html' title='『闘魂　拳ひとすじの人生』　大山倍達'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113258448046281256' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113258448046281256'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113258448046281256'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113152158762463492</id><published>2005-11-09T16:22:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:48:47.378+09:00</updated><title type='text'>『可否道』獅子文六</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02080.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;だいたいの本には著者というものがある。だから、古本を漁っていれば、自ずとたくさんの名前を見ることになる。これはいい名前だな、と思う著者の書いた本にはつい惹かれてしまう。どんな名前がいいかといえば、これは人によるかもしれない。獅子文六なんかは、私の場合、まず名前のインパクトにやられてしまう類の作家だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『可否道』は、後に文庫化されて『コーヒーと恋愛』と改題された。たしかに内容を一言で表現しなさい、と言われれば、「コーヒーと恋愛」となる。だが、やはりタイトルは「可否道」でなければダメだろう。「コーヒーの感じは、ふつう、珈琲と書くが、そのほかに、…無数の宛て字がある」。その中で可否会会長は「可否が、一番サッパリしているよ。それに、コーヒーなんてものは、可否のどちらかだからな。」とハッキリおっしゃっている。また「可否道」といったタイトルには、著者自身の名前にも通ずるセンスの良さも表れていてさすがと思わせるし、「珈琲」でなく、「可否」であることが、本書の品格を一段上げている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コーヒーを入れさせれば右に出る者はいないだろうというほどの腕を持つ、女優坂井モエ子。彼女は８つ年下の演劇一筋の男性を旦那にもつが、年の差と彼女の収入が家計を支えている事実などから、２人の間にはズレが生じてくる。女優とはいうものの、モエ子は庶民派のわき役を得意とするようなタイプで、歳は40を越えている。だから、ここで描かれるのは、月9でやるような20代男女の色恋ではなくて、大人の恋愛だ。かといって、ドロドロの昼ドラみたいでももちろんない。にぎわう東京の白黒写真を眺めるような、どこかほのぼのとした空気が常に漂う。言葉にすれば、「昭和の雰囲気」とでも言うのだろうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;獅子文六の本にハッとさせられるのは、その終盤、特に結末である。恋愛もののステレオタイプに、馬が合わない二人→ハラハラさせる出来事の積み重ね→結局、二人は結ばれる、という流れがあるなら、この流れの中に獅子文六は、男と女以外のそれらと同等になる要素を加えて、意外な結末を用意する。無論ここで作品で加えられる要素とは、可否（コーヒー）である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;意外な結末というのは、誰か一人、たいていは主人公が幸せになるのではなく、小説の中を全体的に幸せにするという点だ。そこでは、主人公も登場人物の一人として平等にとらえられている印象がある。今日でさえ、凡百の小説が中心人物に注意を引かれ、周りの登場人物を見捨ててしまう中で、獅子文六はバランスのいいブレンドを作り出すように関係全体を調和のとれた状態にもって行く。こういうやり方が興味深い。ここには、一家団欒を良しとするような日本人らしさが影響しているようにも感じられる。一見ありがちのようで、どこか辛みも持ちあわせた結末は、新たなスタートのような印象があり、それは『胡椒息子』でも同じだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;途中、退屈することもなくはないが、また他の作品を読もうと思わせる魅力は十分ある。なるほど、と思わせる可否（コーヒー）の蘊蓄がちりばめられているのも、本書の魅力の一つだ。装幀は、芹沢けい介が担当している。箱もなくシミが少しあるのは残念だが、表紙と扉のデザインで芹沢さんのセンスの良さが確認できる。本書は、読みたい人も多いらしい。読むには問題ない状態だから、1300円くらいだろう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/11/blog-post_09.html' title='『可否道』獅子文六'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113152158762463492' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113152158762463492'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113152158762463492'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113108407762695947</id><published>2005-11-04T14:53:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:47:05.249+09:00</updated><title type='text'>『映画芸術　1970年3月　NO.271』</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02079.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『キネマ旬報』は戦後復刊してから今も続く映画雑誌だ。戦後復刊してから、1960年代までのものは、表紙に海外の女優さんの写真が配されて、よき時代の映画の姿が感じられる。そんな姿にまいって、「映画俳優に見せられて」というキネマ旬報の特集ページも前に作った。そんな経緯もあって、ブックピックでは、キネマ旬報を多く扱っている。しかし最近、映画雑誌でもう一つ今もがんばってる『映画芸術』に出会って、店頭でペラペラやってみたら、こちらもかなり面白そうだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『映画芸術1970年3月号』でまず気になるのは、寺山修司、唐十郎という名前で、表紙をめくると、目次の裏に天井桟敷の広告なんかが載っている。キネ旬の70年代はしっかり読み込んでないが、60年代以前を見た感じだと全然違うし、アングラ色が強いのが当時の『映画芸術』の色なのかもしれない。あと、エロの匂いも漂う。前に一度だけ買ったときの号は、ポルノ映画ランキング特集だった気がする。そして、今号でも寺山、唐を抑えて、巻頭に「Cinema Eroticism」と題し、裸の男女のカットがある。どうでもいいが、このころの外人ポルノ男優は、みんなヒゲづらな気がする。ここでもヒゲだ。続く「続・いそぎんんちゃく」という映画広告のコピーも気をひく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　&lt;em&gt;ボインが&lt;br /&gt;　五センチ、アップ！セクシームードは&lt;br /&gt;　十倍アップ！…&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;　（p.24）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;改行、句読点の位置が絶妙だ。だが、言われなければ、上映中に「五センチ、アップ！」に気づくかどうかははなはだ疑問であり、セクシームードに関しても主観の問題である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「異色映画論」では、寺山、唐を筆頭に、増村保造、鈴木清順なども顔をそろえ、文章には勢いが感じられる。鈴木清順の文章は、本人の言葉で思考を実況中継しているようでさえあり、かなり長い文章に改行は一カ所しかない。芥川龍之介、太宰治と、文学の作家は自殺しているのに、小津安二郎、溝口健二、川島雄三はみんな病死だ。なぜ、映画監督は自殺しないのか、と考えながら鈴木清順はヴィスコンティを見る。自分自身と自分の魂を同時に登場させるというアクロバティックな書き方だが、結局どちらもヴィスコンティを否定する態度であり、「此の監督には自殺への思考の一かけらもなければ、…何故映画監督は自殺をしないのか、の問いを笑って蹴飛ばすタイプと見えた。」とある。事実、ヴィスコンティは、自殺することなく76年に病死している。増村保造の文章は対称的で、理路整然としてエリア・カザンの当時の新作「アレンジメント」を批判する。一方、寺山修司は、増村と同じく、「アレンジメント」を題材としながら、自分の体験に重ね、寺山節にしていて、増村とは全く違った趣がある。これは寺山節に引っ張られ、作品からは引き離されている印象もあるが、読み物として面白くなっているのは、さすがである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;他にも、種村季弘、飯島耕一の文章があったり、「革命的エロチシズムは神話か　フリーセックス映画の流行」なんて特集も気になる。また、読みやすさなんて二の次でスペースを全く無駄にしないレイアウトには感銘を受けた。改ページだろうと思われるところでも決して余白を作らないスタイルからは、それを買う映画狂人たちの文字に対するどん欲ささえ感じられてくるからすごい。実際、1400円くらいでもいいんだが、その姿勢を買って1600円くらいはつけたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういえば、書評欄で中井英夫が小栗虫太郎『黒死蝶殺人事件』を日本近代における「天下無双の奇書」なんて褒めている。小栗虫太郎は澁澤龍彦が触れていて気になっていたが、中井英夫もここまで言っているなら読まなければ、と思わされた。こんな拾いものがあるのは、古雑誌のいいところだろう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/11/19703no271.html' title='『映画芸術　1970年3月　NO.271』'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113108407762695947' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113108407762695947'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113108407762695947'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113083041500199318</id><published>2005-11-01T16:29:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:45:59.294+09:00</updated><title type='text'>『天使のいざこざ』　ラングストン・ヒューズ　木島始訳</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02078.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前回話した、古本を買ってポイントになってくるものの一つには、もちろん出版社がある。晶文社と平野甲賀によるサイのマークはセットとなってある種の安心感を持っている。それによって、どんな本でも晶文社だったら、きっといい本なんだろうと思わせてしまうのはすごい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ラングストン・ヒューズは言わずと知れた黒人詩人。彼について語られた言葉の多くに、その姿勢に対するリスペクトの気持ちが感じられるし、いい評価を聞くことばかりだ、とは思っていたが、この本を読むと、それももっともだと思わされる。『天使のいざこざ』はアメリカの黒人差別を意識した短編で構成されていて、例えば、「うつろいて」はこんな話だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;黒人失業者の大男サージャントは 雪の降る寒空の中、寝る場所もなく、教会を訪ねる。だが牧師は、ただ「だめだ！」といって、ドアを閉める。行き場をなくした彼は、もう一度ノックし、どうにか開けてもらおうとドアをグイグイと押しはじめる。これを見た白人警官は彼をひっぱがそうと棍棒をもってかけつけ、周りの白人たちもそれに加勢する。しかし、大男サージェントはどんなことがあっても引きはがされまい、とドアを掴んでいる。そのとき、教会はぶったおれる。「だめだ！」と彼にいった牧師も、警官も白人も埋め込み、教会全体がぶったおれた。すると、その衝撃で十字架から引き離された石造りのキリストが現われ、十字架から解放されて、そりゃあ、もう嬉しいと、ふたりで笑い声をあげる。サージャントはしばらくキリストとともに歩き、浮浪者のたまり場に寝場所を見つけ、キリストと別れる。&lt;br /&gt;明朝、彼は浮浪者とともに走っている貨車に乗り込もうとする。その車には、なぜか警官がいっぱい乗り込んでいて、彼の指の付け根を殴る。「こんちくしょうめ」と、彼は叫ぶが、ふいに、汽車に乗ろうとしているのではなく、いま彼は刑務所にいて、独房の鉄柵にしがみついていることに気づくのだった。じつは教会のドアは何ともなく、傷んだのも彼の指だった。それでも、「キリストはどこへ行ったかなあ？」と彼はつぶやいていたというくだりで話は終わる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;教会を崩す彼の姿はすがすがしく、キリストとの会話にはユーモアがある。彼が見ていた幻想の世界は、正しいことが正しく反映される世界で、だからこそ教会らしくない教会は、あっけなく崩れる。それで完結していても話として面白い。だから、なにも不幸を突きつけなくったっていいじゃないか、これは小説なんだから、幻想の世界がまかり通ったまま終わった方が、後味だってずっといいや、とつい感じてしまった。しかし、ラングストン・ヒューズがこの文章を書くのは、「黒い同胞」たちのためであって、単なる娯楽のためではない。「黒い同胞」たちの生活は、幻想の世界で完結することは決してない。つらい現実であっても生きるしかないのである。だからこそ、ここでもしっかりと現実に引き戻す必要があり、そこにこそリアルさがにじみ出てくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ほかの短編にも一貫して感心するのは、辛い黒人の生活を描きながら、最後に彼らが生き続けることを示す点だ。ほんとうの辛さや悲しみは死ぬことにではなく生きることにある。死が悲しみを呼び起こすのだって、生きている人を介する。必ずしも死を批判するわけではないが、問題や出来事に対して、死をもって解決するのは、安易な終わらせ方ではないだろうか。どこからかそんな声が聞こえてきそうだ。たしかに、死から生まれるのは、他に対しての影響であって、その原因である問題や出来事に対しての姿勢はそこで潰えてしまうという事実はある。この本に出てくる主人公たちには、どんなに辛くとも生きようとする生のエネルギーが満ち溢れている。それが魅力的だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本書は全体のバランスがよく、物語によって書き方も多彩で飽きない。アメリカの黒人差別に対するヒューズの真摯な姿勢も十分伺える。個人的には、「そんなこたないす」、「どっちがどっち」という短編が気に入った。カバーの内側と、p.83にだけシミがあり、状態は良くはないが、とてもいい本なので、1500円にしよう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/11/blog-post.html' title='『天使のいざこざ』　ラングストン・ヒューズ　木島始訳'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113083041500199318' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113083041500199318'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113083041500199318'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-113030881982587411</id><published>2005-10-26T15:37:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:45:22.831+09:00</updated><title type='text'>『月刊ヒント　創刊２号』</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02077.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しばらく古本を買うということを続けていると、買うときのポイントというのがいくつかできてくる。そのポイントの合計点を値段と見比べ、ある線を越えると、じゃあ買おうか、ということになる。ただ、例外はある。それは、どれかのポイントが傑出して高いか低いという場合。例えば、全く知らないが装幀に強い引力めいたものを感じたり、名前に怨念めいたものを感じたりである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『月刊ヒント』もどちらかといえば、例外にあたる。まず名前にズレを感じた。そして、装幀がよくない。もちろん、高ければ買わないが、安かったのでつい購入してしまった。中身をペラペラめくってみると、これまたひどい。特集１は、「ぶらさがり健康器の秘密」。読んでみると、専門家の意見を聞きつつ、ネタぎれなのではと思わせるほどの幅広い視点から、ぶらさがり健康器について語る。しかしそこに特に秘密はない。特集３「近未来テスト」は、1979-2001までの間に、列挙された事件がいつ起こるかを予想して応募するというもの。2005年のいま見てみると、「紅白歌合戦が終わる日」など興味深いものもあるが、残念ながらどれ一つとして、いまだ起きていない。そして、極めつけが、「超能力テスト」。ことばでは少し説明しにくいが、クイズ形式でいくつか問いが並ぶ。Q2 POSITIONING TESTは、空の写真の横に「どこの国の空か」というもの。どこかにヒントがあるのだろうか？なんて思ってはいけない。自らの雑誌タイトルにも反し、どこにもヒントなどない。本当に超能力テストなのだ。超能力がなければ、全く楽しめない。ちなみに、答えはポルトガルだった。きっと、「POSITIONING TEST」なんてのも、適当につけているはず。ここらへんにくると、凄みさえ感じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パルコ出版から1979年に出ていて、月刊ビックリハウスの流れにある雑誌らしいが、なかなかにここまでダメな雑誌は見ない。ここまでくれば、そのダメさ加減が逆に貴重である。蛇足だが、これでも面白い拾いものもある。特集１「ぶらさがり…」のつのださとしさんのイラストは都会的なユーモアセンスがあった。また、山口百恵に関する記事で著名人にアンケートをしているところでの手塚治虫の答えは、今日の彼自身のイメージを正面から叩き崩すもので、驚かせる。「百恵にはどんな時、どんな場所が似合うか」という問いに、「服をびりびりに破られて、地下室の隅でふるえているところが見たい。」と答え、続いて「最後に山口百恵に一言」でも、またまた懲りずに「…かよわく成熟した女で、いじめられる女を見たい。」なんておっしゃっている。まあ、先生も激務にお疲れだったということにしておこう。ということで、今回は600円くらいだろう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/10/blog-post_26.html' title='『月刊ヒント　創刊２号』'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=113030881982587411' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113030881982587411'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/113030881982587411'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-112997177521320968</id><published>2005-10-22T17:57:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:44:44.793+09:00</updated><title type='text'>『ぺてん師列伝　あるいは制服の研究』　種村季弘</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02076.jpg" &gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本の最後にある、他の著書の紹介を見てみると、シリーズ名が「種村季弘のラビリントス」と題されてあって、『吸血鬼幻想』、『薔薇十字の魔法』、『壺中天奇聞』、『パラケルススの世界』といったタイトルが並んでいる。種村季弘の名前は知っていたが、不勉強だったので、この人は澁澤龍彦みたいな人なんだろうと勝手に思っていた。なので、先のタイトルを見て、まあこれじゃあ仕方ないとも思ったが、そんなことでは稲垣足穂なんかも一緒くたになり何がなんだかわからなくなってしまう。どちらにしろ読んでないのはよくない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうしても、澁澤龍彦がまとわりついてか、目次を見て、一項目ごとにテーマに一貫した話が書かれていると思ったが、目を通してみるとそうではない。初出はユリイカで1981年に連載されていたもので、２、３回で一つの話になっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１つ目の話「ケペニックの大尉」は、こう始まる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;em&gt;一九〇六年十月十六日午後一時すこし前、ベルリンのプトリッツシュトラーセ駅の方からやってきた一人の制服の大尉がプレッツェン湖水泳プール訓練場所属の哨兵小隊の一行を呼びとめた。下士官が一人、兵隊三人の小隊編成である。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;（p.9）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;語り口は、緊張感ある当時の状況を感じさせ、この話が何かはわからずいきなり事件に巻き込まれる。なかなかうまい。コロンボ的展開といえば、それまでだが、本編ではその効果がうまく使われている。この話の中心は、始まりで「一人の制服の大尉」であるウィルヘルム・フォイクトである。だが実は彼は大尉でもなんでもない。ただのうだつの上がらない小市民である。その小市民が制服の力により、とんでもないぺてんをやらかすのである。事件そのものがとても面白く、題材がいいとも言えるが、種村季弘に感心してしまうのは、その扱い方である。読み進むにつれて、この一事件から話がうまく膨らんでいき、難解な印象を受けずに、歴史や社会構造の話まで聞かされてしまう。どこかで四方田犬彦が澁澤龍彦の文章について、難解な言葉を使いながら、とてもわかりやすい、というようなことを書いていた。もちろん少し趣が違うにしろ、この指摘は、種村季弘にも当てはまるかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;やっぱり良かった、という印象だが、たいてい前もっての期待があると、落胆が大きいもの。期待にそぐわぬというのは、すごいことである。岩波現代文庫から新刊でも出ていて1050円で買えるが、こっちはハードだし、装幀もこの方が良い。装幀家の名前は見あたらないが、裏表紙に「Eureka」とあるから、雑誌「ユリイカ」で使われていたものを使ったんだろう。裏表紙の見返しに読んだ人のサインがあるが、これもまた良い。横顔のイラストと謎のアルファベットが並ぶ。マジック・ペンの迷いのない筆跡からみて、ただ者ではない予感もする。もちろん、ただ者の可能性も高い。んー、内容がいいから1200円くらいだろう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/10/blog-post_22.html' title='『ぺてん師列伝　あるいは制服の研究』　種村季弘'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=112997177521320968' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/112997177521320968'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/112997177521320968'/><author><name>kawakami</name></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-17946692.post-112964135715864323</id><published>2005-10-21T17:39:00.000+09:00</published><updated>2007-12-20T22:41:53.707+09:00</updated><title type='text'>『ムツゴロウの絵本』　畑正憲</title><content type='html'>&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02073-754563.jpg"&gt;　&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02074-719154.jpg"&gt;　&lt;img src="/pubooks/uploaded_images/K02075-751501.jpg"&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ムツゴロウこと畑正憲さん。最近はしばらくみないが、この本なんかを読むと、さすが一つの王国を築いただけはあると納得させられる。全部で４巻あるのだが、家にあるのは、１〜３巻。無理に４巻を手に入れようかとも思ったが、いきなり４冊まとめて買う人はいないだろうし、ムツゴロウさんの狂気ぶりは一冊でも十分伺える。文庫なら手に入りやすいし、気に入ったら他も買いそろえてもらいたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;絵本というだけあって、白黒ながらなかなかインパクトのある写真の合間に文章が書かれていて、たまに入るムツゴロウさんのイラストがホッとさせる。手元の３冊の中では、特に２巻が気にいった。その名も＜ヒグマの巻＞。ムツゴロウさんがヒグマを子どもの時から育てていく。写真の多くはヒグマとムツゴロウさんの２ショットで、まだ小グマの頃は微笑ましくみていられるが、途中から心配になってくる。ちょっとムツゴロウさん、見出しで「大きくなったなあ」なんて感心してる場合じゃないよ。食べられてない？とついツッコミを入れたくなる写真も多い。数年前、ライオンか何かにムツゴロウさんが小指を奪われ、ちょっとニュースになったが、そのときまで指が揃っていたのが不思議だ。そして、ハラハラさせながらもラストは、ヒグマに乗ったムツゴロウさんの写真に「ヒグマに乗った　長年の夢を果たした…」と始まる詩がついていて、なかなかうまくおさめている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１巻が1972年に出て、一年弱で２巻が出、そのあと１年半ほどで３巻が出ているのに、定価は950円、1000円、1600円とジャンプアップしているのも気になるところだが、全部700円でいいだろう。２巻は、背の下の部分に少しシミ跡があるが、２巻は目玉な上に、表紙はヒグマのアップなこともあり、あまり気にならないので、同じく700円にしよう。</content><link rel='alternate' type='text/html' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/2005/10/blog-post_21.html' title='『ムツゴロウの絵本』　畑正憲'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://www.blogger.com/comment.g?blogID=17946692&amp;postID=112964135715864323' title='0 件のコメント'/><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://www.bookpickorchestra.com/pubooks/atom.xml' title='コメントの投稿'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/112964135715864323'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/17946692/posts/default/112964135715864323'/><author><name>kawakami</name></author></entry></feed>