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第2回:ぼくらの手は、メダルに届くか?
プロ野球球団の合併話とかJリーグの人気低下とか散々言われてはいますが、とはいえここ数年、日本のスポーツの盛り上がりはやっぱり増しているのだと思います。EURO(ヨーロッパのサッカーの大会です、念のため)をこれだけ熱心にチェックして「開幕と決勝が同じなんてありえねーよー」なんてぼやく層が一般まで(つまりは、普通の新聞やニュース番組にまで、ということなのですが)広がるなんてことは、誰か予想していたでしょうか。そんな今、どこかのカルチャー誌がこんなタイトルの特集を組めば、誰もが「アテネ!」となるでしょう。もちろんオリンピック人気はそれ以前からのものですが、蔓延するスポーツ熱がそれに拍車をかけていることは間違いありません。
人類にとって美しいということが、どんなに重大なことであるかを、金銀ほど直截・簡明に知らせてくれるものは、他にないであろう。金銀は、金属のなかにあって、銅・鉄・錫・亜鉛などに見られるような実用性はない。(中略)それなのに人類は六千年前の昔から実用的価値あるすべての金属よりも、金銀をほしがったのは何故だろうか。その答は誰にでも容易である。要するに金銀は光り耀いて、美しいからに相違ない。(P24
江上波夫「世界の輝ける美術」)
ところがこの35年前の『太陽』の「金銀」特集にはスポーツのスの字も出てきません。それでもこういった文章を読むと、間接的につながっている気がするのです。世界一の勲章としての金メダル。世界一美しく走り、飛び、泳ぎ、投げ、勝ったことへの誇りがそのまま詰まっているそれを、首から提げること。テレビ画面にしがみつく全世界のぼくたちは、その重大さを無意識のうちに共有しています。「人類にとって美しいということが、どんなに重大なことであるか」。すごくいい一節だなあ、と思うのです。
そんな金銀の歴史をあの『おしゃれの文化史』の春山行夫が書き、『銀の弾丸』という短編推理小説を陳舜臣が書き、金井美恵子、杉本苑子、富岡多恵子、田辺聖子、萩昌弘などもそれぞれコラムを書き。その魅力を余すところなく伝えています。そしてその特集の後にもまたいつもの充実の企画が。昨年パリで展覧会が行われたばかりのフェデリコ・パテラーニによる「南太平洋冒険の島々」というルポや、小尾信弥×星新一による「夏の夜に星を語ろう」という対談。連載も『寺島町奇譚』の滝田ゆうによる漫画ルポ『色彩廓続俤』の第二回「名古屋中村」や、新田次郎『芙蓉の人』など盛りだくさんです。
そのなかでもひときわ目立つのが、白洲正子からスタートする新連載『骨董夜話』。今では単行本としてまとめられ、糸井重里なども絶賛している名著は、この『太陽』の連載だったのでした。第一回は「乙」という、狂言で若い女をあらわすお面について。坂本五郎という人から譲ってもらったこのお面の話から、骨董の世界そのものについて語っている小文です。坂本さんは乾物屋なのですが、白州さんがこの坂本さんのことを書いた部分が、とても印象的でした。
私がいつも面白いと思うのは、骨董屋さんほど自分の個性を生かしている人たちはいない。五郎さんは、いつまで経っても乾物屋だが、そこの所が魅力でもある。(中略)かつぶしを見分ける眼が、狂言面の美しさをとらえたのだ。私は笑談をいっているのではない。かつぶしの味もわからぬ人に、物が見える道理はないといっているのである。(P117 骨董夜話1 白洲正子「狂言面
乙」)
何を見る眼も、それをいかに愛し、知ろうとするかということにある。そういうことを言っているのだと思います。金銀のような生まれもって感じられる絶対的な美しさと、骨董のような知れば知るほど深みにはまっていく美しさ。美しさには多分、大きく分けるとその二種類があります。前者の頂点を極めた美しさを永遠に求め続ける人もいるでしょうし、色々な美しさを味わおうと後者の深みにどんどんとはまっていく人もいるでしょう。どちらにせよ、ぼくらはそれらが持つ甘い魅力に酔いしれるために生きている。少なくともぼく自身は、そう言いきってしまえる気がします。スポーツの美しさは、どちらに近いのでしょうか。どちらにせよ、勝利の後にはビールです。(内沼)
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