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第4回 芹沢高志さん(P3
art and environment 代表)
本というものはすばらしいものであって、
それに関与していくことの喜びはありますし、
自分が関与していってもいい分野のひとつだと思っています。
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第4回にして、インディペンデント界(というものがあるとすれば、ですが)の大御所の登場です。などと大仰にふるまうのは多分ご本人の意思ではなく、興奮したブックピックのメンバーがこのかたをどう紹介したらよいか迷っているから。
(80年代末から90年代末にかけて、四谷の東長寺という禅寺の地下の空間を利用したアートスペース―現在でいうオルタナティブ・スペースと呼ばれるような場所ですが―そこを運営していたのがP3art
and environment (以後P3と略)という組織でした。99年にスペースが閉鎖されるまでの約10年の間、そこではフラー、ケージ、蔡國強などといったアーティストの展覧会や先進的なイベントが数多く行われ、四谷のP3といえば、今ではある種「伝説」となっています。(詳しくはP3のHP(past)を参照ください)
そのP3ディレクターである芹沢高志さんは当時、9月末から始まった横浜トリエンナーレ2005(http://www.yokohama2005.jp/)のキュレーターとして活動されました。(横浜トリエンナーレ2005は12月18日で閉幕しています。)
このインタビューはその準備で大変忙しい中、貴重なお時間をいただきP3の出版を含めた当時の活動から現在に至るまでをお話しいただきました。
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1.精神とランドスケープのシリーズ

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1、『禅とオートバイ修理技術』、ロバート・M・パーシグ著、五十嵐美克+兒玉光弘訳、1990年4月発行、2,940円(税込)
<買い方> |
2、『雪豹』ピーター・マシーセン著、芹沢高志訳、
1988年9月発行、めるくまーる版は絶版。最近、早川文庫で復刊されました。 |
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----先日、石川直樹さんとお話されていたときに(※1)P3の場所ができたとき、一緒に出版もやりたいと考えていた、とおっしゃっていたんですが、まずはP3における場所と出版の関係について伺いたいのですが。
まあ、そんなに整理されたり、きれいに計画されたものではないのだけど。もともと東長寺のプロジェクトに誘われる前から出版には関与していた。翻訳とか、やらざるを得ないはめになり、何回かやめようと思ったりしたんだけど、でも結果的にやることになって、ていうか、やってたんだ。
当時ね、B.フラー(※2)の『テトラスクロール』とか『クリティカル・パス』という本があって、後者は結局、僕は訳さなかったけど(※3)
、、出版しよう という話があって、そんななかで金坂留美子という人と出会った。彼女は編集者なんだけど、英語が抜群で、センスも完全に信頼できた。その時期は、東長寺の再開発プロジェクトにも加わった頃で、たしか1984、5年だったと思います。東長寺のプロジェクトの基本構想を立てる頃ですね。それで、以前から<めるくまーる>という出版社とつきあいがあったのだけど、そこにパーシグという人の『禅とオートバイ修理技術』(本1)という本の出版企画が持ち込まれた。読んだことはなかったけど、60年代のヒッピーカルチャーにおいて、バイブルのひとつといってもいい本だった。話としては、オートバイの日々のメンテナンスの話と、ギリシャからはじまる古今東西の哲学談義が織り混ざっていて、ぼくにはちょっとしんどいけど(笑)、すごい本だった。なんといっても、タイトルが衝撃的じゃない(笑)。和訳も出版されてたけど、部分訳で、その全訳をやりたいっていう話だった。
一方、金坂とぼくは、マシーセンの『雪豹』(本2)という本をやってみたいと思っていた。これはカトマンドゥあたりに集まる連中がみんなもっていたような本。マシーセンは紀行文学ですごい仕事をしている人だけど、彼の中でも最高傑作だと思う。彼はニューヨークの禅堂に出入りしていて、奥さんががんで亡くなったことも引き金になるんだけど、友人の動物行動学者、ジョージ・シャラーがネパール奥地にヒマラヤアオヒツジの生態調査に行くというので、もしかしたら幻の雪豹に出会えるかもしれないという期待も抱いて、旅に同行する。その旅の日記なのね。しかし、びっくりするほど淡々としている。波瀾万丈の冒険物語じゃないんだ。ほぼ、なにも起こらない(笑)。毎日山を歩いて、ヒマラヤアオヒツジの生態の話が出てきたり、自分の奥さんが死んで行く思い出がでてきたり、チベット密教の世界では殺生を禁じているので仏教寺院の周りでは生態系が守られているのだけど、そんな宗教と環境の話とか、いろいろでてくるんだけど、それが実に淡々としていて,静かに心に染み入ってくる。それに、風景の描写が本当にすばらしいね。で、雪豹なんだけど、これはついに見られない。最後、足跡だけはみつけるんだが。見たい,見たい,見たいとそればかりを願って,苦しい旅を続けていくわけだが,結局,足跡しか見られない。これって、すごいじゃないか。いないんじゃない。たしかにそこにいるんだけど、見られたのは痕跡だけ。非常に禅ぽいともいえるよね。マシーセンが意識しているかわからないけど、十牛図の世界にも似てる。この絵では牛を悟りにみたててるんだけど、若者が牛を追い、捕まえ、やっと飼いならすが、そのうちそれもどうでもよくなり、牛を忘れ、その後になってやっと、ただ牛と一緒にいる状態になる。そこまでの旅を描いた絵なんだ。
『雪豹』も名著といわれていたけど、日本では全然紹介されていなかったから、この2冊を核にしてー地味な本だからねーもう少し大きな枠組みをつくってシリーズにして出したらどうかと、めるくまーるに提案した。それが結局<精神とランドスケープ>というシリーズになったわけなんだ。あれ見たこれ見たとか、あれ食べたこれ食べたという観光本や食べ歩きの本じゃない。かといって、あまりに思い込みが強すぎる本もあるじゃない。はじめから強固なものの見方をもって新しい土地に出向くから、見るもの聞くものなんでも自分の世界で解釈して、自分の話しかしない。そういうのは世界を旅してるんじゃなくて、自分の思い込みの中を旅してるわけだよね。ぼくは、そのどちらも硬直してて、いやなんだ。なんか、その中間にある、もっと精神とランドスケープが、相互に作用して変わり続けていくような、そんな旅に共感するし。心動かされる。自分の今までのものの見方が新しいランドスケープ、新しい土地との出会いによって揺れ動かされ、そんな新しい目で世界を見るから、今度はランドスケープも変わって行く・・そういう精神とランドスケープのキャッチボールを描いた作品があるだろう、そういうのを10冊ほど集めてシリーズ化したいと思ったんだ。
同時に東長寺のプロジェクトも進んでいて、建物ができた後、なにをするのかが重要な話になっていて、それを担うためのP3という組織も出来ていたから、結局全部をくっつけちゃって、この組織の活動の一環として、「P3編」の<精神とランドスケープ>という出版シリーズをつくることにした。出版元はめるくまーるにお願いして、ある種キュレーターのように、<精神とランドスケープ>の主旨に合った本を集めてシリーズ化したわけ。
で、必要に応じて、ぼく自身も翻訳をした。
----芹沢さんといえば、ブルース・チャトウィン(※4)との関わりがあった人物としても名前があがると思うのですけど、シリーズの中にあるチャトウィンもその延長線上ですか?

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3、『ティンカー・クリークのほとりで』
アニ・ディラード著、金坂留美子+くぼたのぞみ訳、
1991年11月発行、2,447円 (税込)
<買い方> |
4、『ウィダの総督』
ブルース・チャトウィン著、芹沢高志+芹沢真理子訳、1989年6月発行、1,365円(税込)
<買い方> |
5、『パタゴニア』
ブルース・チャトウィン著、芹沢真理子訳、1990年7月発行、2,100円(税込)
<買い方> |
マシーセンとパーシグという2冊の核となる本は見つけたんだけど、じゃあそのほかは?ということになって、ディラードの『ティンカークリークのほとりで』(本3)という本を思い出した。この本は、ぼくと妻の真理子が『サイレントパルス』(※5)という本を翻訳して、工作舎から出したこともあって、工作舎から出た本は読むことも多かったんだけど、なかでもライアル・ワトスンの『未知の贈り物』(※6)は、書き方とか全部がすごく好きだった。その注釈の中でディラードの本を「すごい本だ」と書いてあった。それからどっかでフラーもめちゃくちゃほめてたのを覚えていて、この二人がほめてるんじゃあ、すごいんだろうと思って探しにいき、ディラードの本は見つけたんだけど、その横にあった本が『ウィダの総督』(本4)だった。ペラペラとめくってみると、センテンスがとても短くて、切れがよく、ぼくの好みだった。で、読みもしないで、これ、いいじゃないか!って思ったんだ。いい加減なもんだよ(笑)。その本の裏表紙の紹介を読むと、同じ著者の『パタゴニア』(*5)という本が高く評価されていることも知った。じゃあ、これも取り寄せてやれ、ということで、チャトウィンを知ったんだ。
----翻訳もやられていたということなんですが、芹沢さんの名前でぱっと思い浮かぶ翻訳書だと、フラーの『宇宙船地球号』は後になるんですか?
ああ、これはずっとあと。世紀が変る前に新訳をと思って、2000年に出した。でも、出版は時間が前後するからね。ヤンツの『自己組織化する宇宙』(※7)は7、8年かかったし。同時に何冊か並行してやっていることも多かったから、どれが先か、良くわかんないところもある。
ヤンツの本で思い出したけど、ぼくの翻訳の仕方について話しておこう。ヤンツの本は工作舎の編集者と共訳したのだが、彼女はバイリンガルというか英語でものを考えられる人だった。本自体は理論書なんで、ぼくが下訳していって、彼女が英語のニュアンスを駄目出しするっていうやり方をとった。
ぼくの翻訳のやり方っていうのは、こんなもんさ。なんでも翻訳できるほどの語学力はないし、わからないところはネイティブに聞けばいいと割り切ってるけど、基底に論理がないものは訳せないね。読者にわからせようという姿勢で書かれたものでないと、ぼくには無理だ。詩とか文学性の高い作品になったときには、僕の英語力じゃ大誤訳をする恐れがある。著者もきっとこう考えてるだろうと勝手に思って、大間違いをしかねない。
でも、科学的なことを対象にしていると、ぼくでもなんとか追っていける。ロジックが追えれば、ぼくにも翻訳できるわけだ。だから、ほんとはぼくには科学書が楽なんだよ。
だけど、人に何かを伝えて行く、影響力というか、伝染力というか、そういう点では、論理的、あるいは解説書的な世界よりもフィクションの方が力を持つ場合もあるじゃない。そのことを感じたのが『宇宙船とカヌー』(※8)を翻訳したときだった。これはフィクションではないけど、科学理論を解説した本ではない。伝記というか、親子の物語なんだ。でも、なまじの理論書よりずっと深く、ぼくらの科学や技術や文明について考えさせられた。で、こういう伝え方はいいなあ、と思ってね。自分にはフィクションを翻訳することはできないけど、ノンフィクションだったらなんとかなるかな、とも思って、その経験が<精神とランドスケープ>の引き金にもなったんだ。
----芹沢さんの訳されたり、書かれている本を読むと構築的なものの考え方のサイエンスとか環境、つまり理論があるものとP3のカタログにあるようなアートという言語化できないものが不思議なかんじで共存していて面白いなあと思います。
自分のベースが理科的なものだからっていうのはあるかもね。ぼくは、どちらかというと理科的な世界に親しんできたし、大学の教育もそっちを選んだ。文化系とか理科系とかにわけるのはナンセンスだけど、自分の根底には理科的なセンスがあるとは思ってる。もちろん、理科的な考え方のつまんない部分というか、反発を覚える部分も多いけどね。
まあ、でも、そんなことはどうでもいいことさ。ぼくのなかでは、少なくとも理科的な興味とアートへの興味は、まったくシームレスに同化してる。
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